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宗教観さえもが役に立たないほどに自己否定のところ [2017年04月14日(Fri)]

宗教観さえもが役に立たないほどに自己否定のところ

 日本的霊性によせて

 竹村牧男先生(東洋大学学長)が真理の階層性を説明しておられました。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3519
 頭のいい人は、経典や哲学書の中から、自分で自分に信じられるような部分を抽出して自分の宗教とするというようなことをいう人がいます。宗教者ならそれでいいのでしょう(宗教の自由ですから)が、学者が学問として仏教はそういうものだということは困ります。
 西田哲学によれば、そういう自分の知性で抽出して構成した宗教観は深いものではありません。 宗教観を構成できる、すぐれた「自分」が残っているからです。叡智的自己にすぎません。それでは、そういう宗教を提案する者が互いに我こそは真理だとして争います。宗教を構成できる「自己」を認めてうぬぼれています。自力で構成したものであり、まさに自力であり、深い宗教ではありません。深い宗教ではありません。
 頭のいい多くの人がそういう宗教観をいうかもしれません。自分の知性で宗教観を思いうかべます。するとそれで安心できる自分が意識されます。つまりやはり、二元観です。
 宗教観を構成する働き、それができて安心する自己を意識する働きがあるわけです。対象的意識があり、二元観です。西田哲学の場所的論理でいえば、そういう宗教観を構成する働きとそれを意識(自覚)する働きが於いてある「場所」があります。これは、宗教観でも自覚の働きによっても、対象的にはつかめません。宗教観、自覚を超えたものがあります。

 真の宗教は、自己否定であるといいます。

 「思うに、自己否定とは、まず、自己を自己のみと見ずに、自己を超えたものにおいて自己を持つ存在であると見るとき、そこに対象的に把握した自己を全体的に否定する立場が成立しよう。たとえば、次のようにいわれる。
  「故に我々の自己は、どこまでも自己の底に自己を超えたものにおいて自己をもつ、自己否定に於いて自己自身を肯定するのである。(445〜6頁)」(竹村牧男、2002,p203) (文中の頁は(旧全集の11巻の頁)

 頭のいい人が自己の宗教観を作る自己さえも、役に役に立たない、自分を超えたものにまかせるしかないと、自分の小ささ(絶対無)に直面した時に、深い宗教になるのだといいます。
 そういう自分の無に遭遇する体験、事実があるのです。絶対無は対象的に見るのではありません。だから、よほど、真剣に自分を捨てる人にしか体験できないのです。自分の宗教観を構成できる人には信じることもできないでしょう。

文献:
竹村牧男(2002)『西田幾多郎と仏教〜禅と真宗の根底を極める』大東出版社
★<目次>日本的霊性はだめか
Posted by MF総研/大田 at 12:51 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL