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文字の研究、自分の実践、他者の支援、絶対無の体験 [2017年02月23日(Thu)]
(注)禅の「悟り」体験について、竹村牧男先生(東洋大学学長)が、先週日曜日(19日)にNHK Eテレビの「こころの時代」で語られました。土曜日に再放送があるでしょう。このような深い解釈は、めったに聞くことがない機会です。
竹村牧男先生の放送について
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3140

文字の研究、自分の実践(坐禅、エゴイズムの探求)、他者の支援、絶対無の体験

 禅では、表題のことはみな、別ものとされています。マインドフルネスも、 西田哲学も同様だと思います。 実践は、意志的自己の実践(坐禅など)、叡智的自己の実践、人格的自己の実践があるといいます。
 言葉で説明できる人が、「独断を捨てて見、独断を捨てて考え、独断を捨てて働く(行為する)こと」ができているわけでもない。西田哲学で「独断」といっているものを、道元禅師は「我見我執己見」といっている。気づくことさえなかなか難しい。だから、部派仏教、大乗仏教と分派した。日本の仏教、日本の禅も多くに(個人個人によっても違う)分かれている。根底の絶対無(身心脱落、無分節)は、人間性であるから、同じはずであるが、説明は違っている。見え方が違っているとか、見えていない。各人がそれぞれの立場(絶対無、世界の立場でない)を主張する。
 道元禅師は、自己の根底の平等性をこういう。絶対に対象的には見えないものである。西田博士が絶対無というもの。

 「仏道を修行する者は、先ず須(すべか)らく仏道を信ずべし。仏道を信ずる者は、須らく自己もと道中に在って、迷惑せず、妄想せず、顛倒せず、増減なく、誤謬なきことを信ずべし。かくの如きの信を生じ、かくの如きの道を明らめ、依りてこれを行ず。乃ち学道の本基なり。」(「学道用心集」)

 道元禅師はこういう。

 「学道は思量分別等の事を用いるべからず、常に思量等を帯び吾が身をもって@𢮦点せば、ここにおいて明鑑なるものなり。その所入の門は、得法の宗匠のみありてこれを悉(つまびら)かにす。文字法師の及ぶ所にあらざるのみ。」(道元禅師『学道用心集』)(@検は、これを手偏にした文字)

 禅師の弟子で「よし」と言われたのはたった一人でした。文字ではないらしい。坐禅はみなした。坐禅でもないらしい。西田博士も、体験は宗教者にまかせるという。
 禅の実践(集中か)ができる人が、他者の支援(苦悩は集中できないことではない)ができるわけではない。深いマインドフルネス、深い哲学も現実に実践化されないと現実社会で活きない。深さの違う問題の解決支援に使えない。自分で悟る(人によって定義が違う。坐禅のこと、集中、絶対無)ことはまだやさしい。しかし、他者を悟らせるのは、非常に難しいといわれる。


竹村牧男先生の放送について
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3140
Posted by MF総研/大田 at 18:23 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL