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科学は対象論理 [2017年02月21日(Tue)]

科学は対象論理・しかし自己は対象論理ではつかめない

 西田博士は、科学の限界をこう説明しています。

科学は対象論理、ある立場
 「科学者はいつも対象論理によって行為するのである。ある立場を限定することによって、科学が成立するのである。」(『哲学論文集第一 〜 哲学体系への企図』旧全集8巻3頁)(21頁も)

 「立場」は、無数に考えられます。たとえば、「うつ病は、セロトニン神経の障害である。」とか「うつ病は認知のゆがみによって起きる」とか。それは互いに重なるところもありますが、違うところもある。しかし、その定義で科学的らしい論文を書くことができるでしょう。
 「仏教とは、、、」「禅とはただ坐禅することである」とか「禅とは見性が必要であるとか」。また「マインドフルネスとはこうである」とか。そういう定義、立場で、実験、検証して、科学的らしい論文を書くことができます。

 科学者は、叡智的自己ですが、自分自身ということを知らない。真の自己は、多くの科学者がそれぞれを主張するその奥の主体だからです。意識では把握されない。対象論理では自己はつかめない。自己の真実を知らないから、自己を基体化して絶対視し 名誉、地位、金銭、などから世界、クライエントなどを差配しようとする傾向があるという。西田博士のいうところを指摘して板橋氏の解説があります。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/2218

 対象論理は、西洋的です。しかし、自己は対象論理ではつかめないと、大乗仏教、日本の禅、西田博士が主張してきました。だから、科学者は「我こそは真理」というが、そう主張する「我」=自己自身とは何かを知らない。多くの叡智的自己、専門家が争う。そのように主張し争う主体をすべて包むものがあるという。

 新聞で『医者の罪と罰』(幻冬舎)が発売になったという宣伝をみました。医者も「科学者」です。まだ読んでいないのですが、この本もこういう叡智的自己のエゴイズム、ある立場だけを患者に強制すること(セカンドオピニオンをいうと怒り出す?)、独断ですね、そういうことを示しているのかなと期待しています。 仏教学、禅学、心理学、マインドフルネス学も対象論理で研究されているでしょう。しかし、対象論理ではわからないのが自己であり、解決しない自己存在の苦しみや、科学者のエゴイズムがありそうです。世界がよくなっていません。争いが絶えません。

自己の私を去って考え、行う、どこまでも真実を求め、真実に従う、そこに科学がある

 西田博士はこういう。

 「実践的自己に対して与えられるものは、無限の課題でなければならない。我々の真の自己に対して与えられるものは、我々の生死を問うものでなければならない。我々はどこまでも自己の私を去って物そのものとなって考え、物そのものとなって行う、どこまでも真実を求め、真実に従う、そこに科学があり、道徳があるのである。」(旧全集9巻,300頁)

 科学者は、こういうふうに、厳しく独断を捨てて科学を行っておられるのでしょうか。
Posted by MF総研/大田 at 18:24 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL