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マインドフルネス瞑想療法士認定講座の第7講義 [2016年12月11日(Sun)]

マインドフルネス瞑想療法士認定講座の第7講義

 昨日は、マインドフルネス瞑想療法士の認定講座の第7回でした。

第7講義  初期仏教の実践と哲学思想の問題

第1 テキスト
「マインドフルネス心理療法入門講座5回目レジメ」
(A)『マインドフルネスSIMT基礎講座 第7』
   =初期仏教の実践と哲学思想の問題
(B) 『初期仏教のマインドフルネス 〜 「正念」の方法』
(C) 『パニック症と広場恐怖症』

第1 初期仏教にある正念とマインドフルネスの問題

 1)マインドフルネスは哲学なしでいいのか
  ビパッサナー瞑想は、
  東南アジア諸国に伝わるパーリ仏教の方法
  釈尊の直説ではない。
2)三世実有・六道輪廻
3)初期仏教の解脱・涅槃・悟り
4)僧侶の修行の進度・聖者に4段階
5)無我・執着のないこと
6)ダルマの実体視
7)世界の構成要素=五位七十五法
   これを実体視視した(大乗仏教から批判された)
8)四諦・八正道
  八正道のうちの「正念」は経典にどう記述されていたか。
   アメリカのマインドフルネスMBSRの観察するのは、ごく一部。

第2 大乗仏教が批判した初期仏教の問題

1)大乗と初期仏教の違い
 家庭、職業を捨てる初期仏教。大乗仏教、日本仏教は家庭職業の中で至誠の実践。
2)三世実有・法体恒有の批判
 すべての人間の根底の絶対平等性が言われない。
3)初期仏教には利他がないという批判
 家庭職業を持たず自分たちだけ戒を守り修行して、六道輪廻からの解脱を求めていくので、社会での問題解決から離れていて「自利」だと批判された。家庭職業の中で、下のような深い哲学を体験的に証明して苦悩から解放されるべきで、当然、すべての人がこの人生で(六道輪廻でなく)苦悩を解決して社会創造に参画していく哲学と実践が大乗仏教で強調された。

第3 現代の仏教学、哲学からの批判

1)仏教学者禅学者からの批判
2)西田幾多郎による初期仏教批判
3)他の哲学者からの問題指摘

 総合すれば、初期仏教の思想哲学、実践は、家族、職業を捨てた純粋の出家が行うもの。現代のように家庭、職業を持つ人が、その中で至誠の実践をして、本音(初期仏教で煩悩といったものに類似)や人間の自然の愛情(人や社会に対する)を滅尽することなく、至誠の工夫をしながら悟りを得ることができるという後世の禅(道元禅師、禅ではないが親鸞聖人、西田幾多郎、鈴木大拙、井筒俊彦など)とは異なる。

 こういう批判を克服する日本的マインドフルネスを研究すべきである。長い人生で、家庭職業を持つ人が、他者にいう技法としてでなく、自己が社会貢献活動(ポイエシス)をしながら、一生実践していく自己成長実践(プラクシス)が日本にあるので、深い哲学(自己、世界、社会、組織と個人、絶対者、人間の平等性、人格の尊厳、全体性など)、自他不二(身心、自己他者、自己と世界、自己と絶対者)の哲学を持つ日本的マインドフルネスが開発されるべきである。それにより、浅い技法を包含しているので、幅広い領域で社会問題の解決の支援ができる、そういう改善が期待される問題は実に多いと思われる。第2回目の大乗、新大乗という人もいたが、 「仏教」という必要はないかもしれない。宗教の違いを包含して全人類に共通であるから、仏の教えという必要もないかもしれない。「西田哲学的マインドフルネスSIMT(自己洞察瞑想法)」とでも呼べばいいだろうか。 うつ病、不安症/不安障害、過食症、はほんの一部。日本的マインドフルネスは、ひろく、深く活用できるだろう。


第4 パニック症と広場恐怖症

参照:テキスト『パニック症と広場恐怖症』
 不安症/不安障害のなかでも、割合多いのがパニック症である。 広場恐怖症と併存することがある。
パニック症と広場恐怖症もSIMTでよく改善している。

詳細は機関誌「マインドフルネス精神療法」第2号

(今期の特別講義)

 東北大学の先生から
「マインドフルネス瞑想と脳機能
 ーSIMT、西田哲学との対応ー」
についてご講義いただきました。マインドフルネスSIMTと西田哲学の行為的直観と脳神経科学の関係です。 スポーツや演奏家は、その行為中、自己意識が脱落している行為的直観。 西田哲学によれば、観ることと行為することとが瞬時にわかちがたく推移していく。ゆっくり観察する脳回路(背外側前頭前野か)とは違う部位が用いられているにちがいない。
先生のお話では、叡智的自己の行為的直観は、島皮質や線状体、前帯状回などが関係しているよう。(意志的自己の意志作用は背外側前頭前野)

(講師による講義内容の要約)
「マインドフルネス瞑想と脳機能―SIMT,西田哲学との対応―」

 叡智自己より浅い自己である意志的自己で行使される意思作用は,自己洞察瞑想の熟練度は叡智的自己を体験した者よりも低いため,Default mode network(DMN)の活動が増加する時があり雑念が入りやすい(見ている,聞いている,考えている自分に気づく過程があるために意図的にDMNを活動させている?)。そのため,島皮質の働きにより課題に取り組むモードに入った後,背外側前頭前野を中心とした認知コントロールが積極的に働くTop-down型の処理がなされて雑念(価値崩壊の欲求)が抑えられ,前帯状回を中心とした働きによりモードが維持されて価値実現行動が遂行されるものと考えられる。一方,叡智的自己における行為的直観は,瞑想の熟練度も高まり自己意識が落ちた瞬間的な判断による行動であるためDMNの活動は低い状態であると考えられる。島皮質により課題に取り組むモードに適切に切り替わった後の認知コントロールの働きは課題の新規性により異なり,新規の課題では前頭前野を中心とした領域の活動が活発に働き課題に向けた認知と行動の調整が頻繁になされるが,熟練した作業や課題ではすでに認知や行動の処理の方法を学習しているためにこれらの領域の活動はそれほど高まらないと考えられる。これらのコントロールは前帯状回を中心とした働きにより維持されて価値実現行動が遂行されると考えられる。結論として,西田哲学における自己の階層と深さとその実践方法により働く脳領域および脳ネットワークが異なると考えられる。

第5 SIMTのセッション7
セッション7は、不快事象の受容

不快なことを受けいれる洞察実践を整理します。 これまで、断片的にトレーニングしてきましたが、現実の人生には受け入れがたいことがおきるのが当然、必然という哲学を理解し、実際受け入れます。 そして、その中でも、自分の生きがいを感じることをみつけて生きていきます。 社会の中で生きているので、社会の中に生きる道をさがしみつけます。 まとめです。家庭、職場、仲間の中で起きる「小さな不快事象の受容」で、トレーニングします。大きな不快事象の受容も基本的には同じです。

次回は、マインドフルネスのための道元禅入門
参考(見て見ぬふりする社会)
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3461
 見る、考える、行為する、広さ深さ。
Posted by MF総研/大田 at 20:50 | 新しい心理療法 | この記事のURL