団体(社会)の悪と個人の悪
[2016年12月07日(Wed)]
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「見て見ぬふりをする社会」(12)
団体(社会)の悪と個人の悪西田幾多郎博士は、個人の悪と、団体の悪を言った。「観て見ぬふりする社会」とは、社会が「見て見ぬふりをする」のではなく、 見て見ぬふりをする個人が充満しているのが社会(団体)であるということでしょう。 団体、集団が悪を犯す時に、それをみのがした、みてみぬふりをした個人全員に責任がありそうです。環境が変化していくのに、それに適応しない行動を固守していくと、その団体は衰退する。組織員全員の責任です。幹部が固執する、それをいさめない他の構成員。 西田幾多郎博士は、エゴイズムが社会に充満しているといいました。 次の言葉が関係しています。 ★社会悪と個人悪=西田幾多郎博士 「全体的一と個物的多と何処までも相反し相互否定的でありながら、矛盾的自己同一として世界 が自己自身を形成し行く所に、我々の実践的行為の目的があるのである。・・・・之に反し、全体 的一が、世界的個物的多として世界の形成要素たる個物的多を否定する時、全体的一の不正があり 、個物的多が世界的全体的一として世界主体の意義を有する全体的一を否定する時、個物的多の不 正があるのである。前者を社会悪と云い、後者を個人悪と云ふ」(10,66)。 個物的多と全体的一とは、互いに内在化することができず、異他的であるがゆえに、個物的多が全 体的一を内在化しようとすることはまた、何らかの仕方で全体的一がそれを助長し呼び起こす限り においてであり、逆もまた真である。それは、「形作られたもの」からの一般的限定と「形作るも の」からの個物的限定との、そのどちらかに偏向することによって、両者が互いに<形作られて形 作ること>において成立する歴史的現実の世界が、その本来の「個性的」な創造性を失うことに他 ならない。」 (板橋勇仁「歴史的現実と西田哲学」法政大学出版局、242頁) ★専門家のエゴイズム 団体は対象的な定理、公理、目的、定義、サービスなどの共通のものを守る。それらは、みな、対象的であるがゆえに絶対の事実ではない。鈴木大拙博士が日本的霊性といったように、それらはみな対象的でないものの上のものであり、ある定義などの枠、限界を持つ。団体は、その共通点を持つが、個人は個性を持つ。同じではない。団体の決めごとが個人の重要な活動を制限すると、個人は個性を発揮した人生を生きることができない。 団体の方針などはある時代、ある環境で決められたものであるから、環境にあったものであったから、環境が変われば、方針なども変わるべきである。それを押し付けると、おしつけられて賛成できない個人は苦しむ。見て見ぬふりが許されると、そうする、つまり団体の方針を守らず無視して自分のしたいことをする、手抜きする。団体を否定する「悪」である。 団体が個人を抑圧するから、個人が復讐するのである。 これでは、その方針を固執するのは、押し付ける幹部の少数である。長く生き残れるはずがない。 その方針は、もう団体としては社会で生きていない。個人は、ほかのことに生きがいを見出す。「マインドフルネス」とは、自己の心の観察である。エゴイズムの心理も 観察しなければならない。西田幾多郎博士はそれを強調していたと思う。このことが従来の仏教(実践も学問も)では明確になっていたとは言えないというのである。それは仏教学ばかりではないだろう。社会に社会悪、個人悪がある。独断と我執が社会に充満しているといった。だから、 西田幾多郎博士は、実践とは「 独断を捨てて見、独断を捨てて考え、独断を捨てて働く(行為する)」ことであると言った。一言でいえば「至誠」だという。至誠のマインドフルネスこそ、日本のものである。特定領域の技法ではない、いかにいきるか全体生き方である。 ★「見て見ぬふりをする社会」目次 https://blog.canpan.info/jitou/archive/2374 ★よくある構図 プチ全能者が、あわれな子羊を自分の周囲にとじこめる。それで自分は喜ぶ。多くの団体。自立させない。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/1812 ★無視・傍観・軽視・放置・見放される病=うつ病 ★専門家のエゴイズム V・E・フランクルの「全体主義、画一主義、還元主義」の批判も。 ★専門家、学問のエゴイズムが起きる仕組み=西田哲学の研究者から ★西田哲学からみる科学学問、そして哲学 〜マインドフルネスSIMTと表裏 【目次】日本のマインドフルネスの再興を |


