教団の外の人々に期待できる [2016年11月25日(Fri)]
教団の外の人々に期待できるしかし、長い間、ある定義による教説を内外に伝えてきた「既成の閉鎖的な教団」には限界があるかもしれません。これを変えるのは、大変です。 そこで、竹村牧男氏は宗門以外の人々が新しい環境に応じた仏教を開発してくれるかもしれないと期待しておられます。「ところで、人間は何らかの世界観や価値観なしに生きていくことはできません。したがって宗教や哲学などを求める心は誰にでもあります。しかし既成の閉鎖的な教団に参加することには、ためらいを覚える人も多いに違いありません。そうしたとき、人々は一般的な仏教書を読み学ぶことによって、自己の思想形成を果たしていくことは大いにあり得ることです。そうしたかたちで、仏教がひそかに個々の人々の心のなかに生きていく可能性は十分あります。それは、既成の宗門を離れたところで展開されていく仏教ということになります。自然科学に打ち込んでいる研究者が、仏教的な世界観に共通のものを見出すことも、珍しくありません。西洋哲学を学ぶ研究者が、仏教思想にも深い関心を寄せていることもしばしば見受けられます。さまざまな分野の人が、仏教の魅力にひかれ、仏教の救いについて語り、それらが人々に浸透していく。そうしたかたちで、今後、仏教が生き延びていくことは十分、考えられます。この動きのなかから、仏教の再生もあるのかもしれません。」 (竹村牧男、2015『日本仏教思想のあゆみ』講談社学術文庫,p340-341) 古い時代(江戸時代に現在の統一見解に定まったのが多い)の環境で決めた組織の統一見解、方針、手法の伝統を守る。しかし、今、外部環境は大きく変わった。市民の意識も大きく変わった。宗教、仏教について、自由に研究している学者、哲学者も自己とは何かについて研究してきた。書物が多く出版された。 市民はそれを見る。宗門のものと随分違っている。 竹村氏は「閉鎖的な教団」といっておられます。閉鎖的とは現代でありながら思想、学問の自由がないということでしょう。自分の真底からの本音をいえない。学術論文も自由な研究を発表できない。外部とは大きく変わる。企業ならば倒産である。 こうした時、真実を知りたい人はよそに向かう。 「一般的な仏教書」を読み、教団のものとは違う「仏教がひそかに個々の人々の心の中に生きていく」。「既成の宗門を離れたところで展開されていく仏教」です。いくつかの在家による仏教の集団があります。マインドフルネスの流派もいくつかあるでしょう。 ほかに「自然科学の研究者」「西洋哲学を学ぶ研究者」が人間、自己、世界とは何かを言及しています。特に哲学者は禅、道元禅師を詳しく研究しています。教団の解釈と違っています。市民も必死です。悩んでいます。本当のことを知りたいのです。 「さまざまな分野の人が、仏教の魅力にひかれ、仏教の救いについて語り、それらが人々に浸透していく。」ビジネス、教育、心理学、医学などの分野の人が、禅、仏教について語っています。教団のものとは違っています。 「この動きのなかから、仏教の再生もあるのかもしれません」と言われます。教団だけが取り残されます。教団の外の人々は、思想、意見、学問の自由があります。議論し、批判し、深いものに発展していきます。現実の市民の期待に応えようとします。それが人間、組織の使命ですから。個人は社会の中に生きるのだから、個人は社会に貢献できる働きをしたいと思い行動します。西田幾多郎博士は個々人は「創造的世界の創造的要素」であるといいます。環境に応じて世界を創造し続けるのです。内向きだけで受け入れられるものを守っていれば、環境に適応しない組織は消えていきます。 本音を語り合う場(こんな現状でいいとは思っていないのではありませんか。本音をいいあってみませんか。匿名で。でたらめでも困ります。私にだけは、所属、本名をおしらせください。会合を開きます。他の人には、本名を言わないで、本音を語りあいます。「違和感をいだいていたのは、私だけではないのだ」と共感できればいいのではないですか。あなたの人生は、まだ何十年かあるのでしょう。何かできることがあるでしょう。集まりで、話し合ったことは、お互いの内に留めて、口外しないことを約束します。) ★「見て見ぬふりをする社会」目次 https://blog.canpan.info/jitou/archive/2374 ★よくある構図 プチ全能者が、あわれな子羊を自分の周囲にとじこめる。それで自分は喜ぶ。多くの団体。自立させない。 ★専門家、学問のエゴイズムが起きる仕組み=西田哲学の研究者から https://blog.canpan.info/jitou/archive/1812 ★無視・傍観・軽視・放置・見放される病=うつ病 【目次】日本のマインドフルネスの再興を |
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