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「悟りを得た西田幾多郎」 [2016年09月07日(Wed)]
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3422
10月2日、講演
今の禅ではいけないといった西田幾多郎博士の実践論。いまなお、状況が変っていません。しかし、「マインドフルネス」ということが言われはじめました。従来の禅ではなぜ、だめなのか。
「後期西田哲学の実践論」(『宗教哲学論叢第一輯』宗教と哲学研究会)の抜き刷りを配布して、解説します。(2回目です)
マインドフルネスを教えるひとはすべて知っておいたほうがいいはずです。
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【連続記事】
「哲学を知り実践するマインドフルネスSIMT」(5)
「悟りを得た西田幾多郎」
第3節 世界的な哲学者・西田幾多郎(にしだきたろう)
(補足)悟りを得た西田幾多郎
西田幾多郎博士は、深い人間哲学を論理的に記述しました。彼も悟り、見性体験をしたので、あのような哲学を書くことができたのです。無字の参究で、公案を印加されましたが「されどわれ喜ばず」と日記に書いてあります。この時は、理屈での認可であり体験ではありませんでした。あの時ではありません。その後です。公案から離れて生活するうちに悟ったのです。
『善の研究』を読んで「西田は悟っていない」といってはいけないのです。
西田博士自身が、後にあれは心理主義に傾いていたことを認めています。世界で始めて、人間の根底を論理的に記述しようとした最初の試みであり、『善の研究』は、未熟な説明でした。後、一生かけて、場所的論理で説明しました。
やはり難しいのは論文『永遠の今の自己限定』でしょう。絶対無、絶対現在を捉えた論文です。西田博士を否定するひとは、これを正しく理解してからするべきです。
自覚していないが、すべての人間の根底で「円環的限定」となずけた働きがある。井筒俊彦が「無分節」といった瞬間。自己も世界もわかれていない時、絶対現在、すべての人間がここを通過している。自己がないので、「死」んでいる。
とにかく、最後の論文
『場所的論理と宗教的世界観』で、悟り、見性ということを
多くの日本人が体験してきたと名をあげています。道元禅師、親鸞聖人、大燈国師、至道無難、盤珪禅師、真壁の平四郎(出家前の名)。これを深い禅を探求した人は、釈尊の解脱と同じとみています。
悟り、見性体験によって、対象的に見る意識的自己はすべて、真の自己ではなかった、意識的自己も根底の絶対無、絶対的一者、大乗仏教で「仏」というものに包まれて、自分はその射影点である、自分と仏とが別ではないという新しい自覚が生まれる。生きているうちに意識的自己がない体験をするので「いきながら死人となる」という。一度死んだものは、二度と死なない。また、盤珪禅師は「不生」ですむといいました。もともと、自分は生まれていない、自己も世界も未分化のところをおさえている。
このようなことが最後の論文に書かれています。
日本文化もこれによるものがあります。茶道の千利休、能の世阿弥、俳諧の松尾芭蕉。
西田哲学は難解です。対象的には意識できない自己の根底を説明しようとしているからです。日本には、深い哲学、深い自己探求、つまり深いマインドフルネスがあるのですから、これを現代に活かすべきです。
論理的に文字で記述するのが、哲学であり学問です。それを体験するのが「宗教」です。したがって、日本の深い自己を体験することは決して否定してはならないのです。エゴイズムのない、人間の平等性を体験するのですから。
しかし、多くが、これより浅いところで人を縛る、囲い込み自由なはずの人を自分の枠内にとどめて自由を得ることを抑圧する傾向もあるので、敬遠されるのです。そうでなく、縛られているものから解放してくれる宗教者もいます。
マインドフルネスの心理学も定義を絶対視すると、それに縛られて深いマインドフルネスの研究を妨げるおそれがあります。深いものでないと救済されない苦悩の解決を妨害する(善意による抑圧です)ことが起ります。こういう学問の全体主義、画一主義、還元主義をヴィクトール・E・フランクルが戒めています。(
https://blog.canpan.info/jitou/archive/2629 )
科学者ならば、同じことをしないようにしていきたいものです。人には数々の汚い心理があります。仏教では「煩悩」といいましたが、SIMTでは「本音」(エゴイズムに近い)ということにしました。「専門家」のエゴイズム、不勉強、無理解、面子、自己保身、自己利益確保による他者排斥・無視がよくあります。社会のよりよい発展を妨害します。後の歴史によって、くつがえります。
日本の深い哲学、マインドフルネスの実践を再検討すべきです。ただし、
ふつう一般の人は、宗教的レベルのマインドフルネスまでは、不要でしょう。
自分や他者を苦しめない意志的自己や叡智的自己のマインドフルネスで十分でしょう。見る局面だけではなく、見る、考える、行為する、という人間行動のすべての局面で、エゴイズムを捨てて見る、考える、行為することが必要です。トレーニングが必要です。
宗教レベルと、宗教でないレベルを哲学的によく理解したうえで、マインドフルネスを探求するのです。今は、昭和以前ではなくて、渾身を込めて書いた西田哲学があります。情的詩的でなく、冷静な学問的な哲学によるのです。しかし、西田博士がいいうように、実践しないと、悟りを得ることはできません。現実の生活にも現れません。西田博士のお孫さんが嘆いておられます。哲学は思考です。意志作用でも行為的直観でも、自覚的直観でもありません。生活化、現実の実践が宗教的実践、今は、マインドフルネス実践です。
「宗教色を抜きにした」マインドフルネスが「科学的」とはおかしな言い方です。
西田哲学は学問です。宗教、禅、真宗の回心も哲学的に説明しています。西田哲学は科学的、学問的でないのでしょうか。
今の脳神経生理学が発展段階であるために深い意識を測定できないだけではないのでしょうか。スピリチュアルなことを扱う心理孚も「科学的」ではないのでしょうか。
とにかく便乗してのマインドフルネスへの誘いがあります。「宗教」とは何かの定義や、宗教はいかがわしいという偏見を助長させないように注意してもらいたいものです。脳画像で測定できないものは、科学的でないと定義すると、がん哲学などは推進できそうもありません。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3379
「思想的な怠惰」ということが、広い範囲の「専門家」にあるのかもしれません。
(続く)
【連続記事】
「哲学を知り実践するマインドフルネスSIMT」
「がん哲学外来」に寄せて
⇒目次
【目次】日本のマインドフルネスの再興を
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Posted by
MF総研/大田
at 17:58
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新しい心理療法
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