(17)宗教的、科学的という境界が学問的でない [2016年08月19日(Fri)]
(17)宗教的、科学的という境界が学問的でない『学者は平気でウソをつく』和田秀樹氏(新潮社)が、心理学や精神医学に「ウソ」が多いと指摘しておられます。「日本では、自分が専門とする治療法だけが正しいと思っている人が多いのが特徴的です。学問や特定の学説が「教義」と化してしまい、結果として患者は置いてきぼり、などということも珍しくないように思われます。」と和田さんは言っています。 いったん、ある治療法、ある学説を学習してしまうと疑わなくなる傾向です。思いこみが強くて、他の解釈、他の説を受け入れようとしない傾向、つまり仏教、禅でいう「我見我執己見」への執着です。もっとすぐれた他を受け入れようとしないで留まる執着です。宗教の場合、やっかいなことがあります。マインドフルネスも新しいようですが、実は仏教、禅にあった実践ですから、諸説があるものです。これもある流派を学習すると、仮設、定義によるものであるにもかかわらず真理であると思いこみが起り、他の方法を学習しようとか、もっとすぐれたものを受け入れない傾向がみらえます。禅、仏教もそうでした。他に乗り換えることがなかなか難しいものです。 禅も誤解が多いことを西田幾多郎博士が指摘しました。現在でも誤解は続いていて、宗教者でも学者でも、すべての仮説、定義を超えた立場の、絶対に対象にならない真の自己を理解する人が少ないのです。結果的にウソの学問になります。自分、自分の立場、仮説が残ったままの坐禅やマインドフルネスになっています。自分をそのまま残して、集中力や不動の心を養うようなつもりです。対象でない自己が何も検討されていません。対象論理的です。 西田幾多郎博士は次のようにいっています。 「我々の自己とは世界が自己において自己を映す、世界の一焦点たるにほかならならない。我々の自己の自覚というのは、単に閉じられた自己自身の内において起るのではない。自覚は自己が自己を越えて他に対することによってのみ起こるのである。我々が自覚するという時、自己は既に自己を越えているのである。ただ、対象論理的独断によって自己自身を実体化している人には、かかる明白な真理をも認めることができないのである。」(『場所的論理と宗教的世界観』)(旧全集11巻378頁) これは、対象とならない真の自己をさしています。 自己とは、世界と対象的な自己があるのではなくて、世界の一焦点なのです。世界が世界自身において世界自身真を映す場所です。自分と世界とがわかれていません。これは対象的にはみられません。体験してわかる自分と世界の真相なのです。見性とか解脱とか身心脱落といわれました。西田博士もそういっています。 日本では、 道元、良寛、一休、白隠など多くの禅僧がこういう真の自己を悟った体験をしているといわれていますが、これを禅の学問があきらかにできていないのです。西田博士によれば、親鸞の回心も同じ体験であるとされます。 仏教や禅に、学問と称して自分の対象論理の解釈をしている学説があります。これを言えば、結果として「ウソ」になります。各人の選択的抽出と都合的解釈、それにあわないものの選択的無視、否定があります。道元禅師が我見我執己見といったものです。認知療法でも指摘しています。 科学は絶対の真理ではなく、仮説にたっているのに、真理であると思い込む学者がいると和田さんが指摘しましたが、西田博士もそういいいます。 「科学者はいつも対象論理によって行為するのである。ある立場を限定することによって、科学が成立するのである。」(『哲学論文集第一 〜 哲学体系への企図』旧全集8巻3頁)(21頁も) 「マインドフルネス」は「宗教性を排除した」「科学的」という。 宗教が社会に貢献できないとでもいうような批判的ないいかたです。しかし、無評価で観察のマインドフルネスは、宗教以前であっても、浅い領域です。宗教でない領域は、もっと広く、深いところまであります。叡智的自己まで、宗教ではありません。 また、宗教も排除してはなりません。宗教も重要な領域で貢献できるでしょう。がん哲学外来も宗教的な救済もあるでしょう。自己存在の消滅という「死」の恐怖におびえるがん患者のメンタルな支援が重要です。 マインドフルネスは宗教を排除した科学性だけがいいわけではありません。 死を意識した難病の患者さんには精神衛生上、宗教性のある哲学が貢献できます。がん哲学外来も宗教性に踏み込んでいます。特に日本の禅、マインドフルネスは宗教的なところまであります。「宗教性を排除したのが科学的である」という言い方は、また、和田さんがいう「ウソ」になるでしょう。専門家は注意していただきたい。マインドフルネスは新しい「科学」だから、ミスもするでしょう。だんだん発展していくでしょう。 実は、最も深い宗教、禅は、すべての仮説、立場を越えた立場ですから、科学、学問も、この立場に立つべきであると西田博士は言っています。自分の好きな立場、理解できる対象論理的立場、自分に有利な立場であっては、科学、学問ではないはずです。私的解釈になります。 「マインドフルネス」ならどれも「科学的」といい、あまり深く考えない用い方がされるでしょう。「マインドフルネス」も、ジョン・カバット・ジンが「全体性」といったことは何か真剣に検討していただきたいと思います。さもないと、別なものを真実と思いこみ、該当しない患者に適用してしまう、日本人の特徴が同じように現れてしまうでしょう。マインドフルネスのブームを機会に、もう一度、仏教、禅、真宗の学問が再検討されることを期待します。従来は、宗教者が学問を兼ねていたので、組織に制約されていた一面があります。これからは、何にも縛られない自由な解釈ができる心理学や精神医学の人々が検討するでしょう。 「がん哲学外来」に寄せて ⇒目次 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3309 【目次】宗教以前と宗教を哲学的に区別したマインドフルネスSIMT |


