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(95)実在論、認識論、実践論の探求の学問 [2016年07月11日(Mon)]

(95)実在論、認識論、実践論の探求の学問

 自分のことがよくわかっていないから、自分の心に起きる心理現象(感覚、「身体動作など、もっとたくさんある)をよく観察しようという「マインドフルネス」がブーム。それは、結局、自分の真相がわからないからだということになる。自己の真相の探求は、東洋では2千年もの歴史があり、洗練された。

 東洋の仏教、東洋の哲学には、実在論、認識論、実践論があった。マインドフルネスには、この3点が備わっているのとないのがある。西田哲学以前の仏教、禅には哲学があるが、論理化されていないと西田幾多郎博士はいう。現代の学問とまではいいにくい。

 アクセプタンス・コミットメント・セラピー(ACT)は、3種の自己をいう。概念としての自己、プロセスとしての自己、文脈としての自己である。実在論がある。その自己による認識論と実践論がACTであろう。二元観の自己は二元観的な認識をして、二元観的な実践をする。

 日本人の哲学は、二元観でない「自他不二的」な実在論であった。だから認識や実践が違う。日本人の文化や行動が欧米の人と違うのは、そういう歴史的な背景があるだろう。鈴木大拙博士は「日本的霊性」といった。

 キリスト教的二元観に満足できず、人間、自己の真相を欧米の人は禅に期待してきた。欧米でも禅への期待は大きい。とすると、マインドフルネスもやがて日本的な禅に似たものに期待するだろう。

 認識論的なマインドフルネス、自己観まであるマインドフルネス、その自己観が禅的な日本的なものと、西洋の二元観的な自己観のままのものとがある。

 マインドフルネスを一生実践するとか、生きがいとするとかいう人は、実在論(そもそも自己とは何か。何がマインドフルネスしているのか)の問題に遭遇する。このマインドフルネスを実践しているが、実在諭がない。それは、禅に求めるか、キリスト教に求めるか。それとも、そういうことは探求せずに,死んでいくか。そのような状況を、「自己に誠実ではない」といったひとがいた。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3380
 政治や温泉や歴史や生物などのことは知るが、もっとも、大切な自分を知らずに死んでいく。
 夏目漱石も、イギリス留学中にノイローゼになり「自分ほどあてにならないものはない」と思って、禅に向かった。一生、禅を研究した。
 今でも、うつ病や不安症の人は、自分があてにならないことをよく知っている。意識的自己があてにならないことを知っていて、真相に近いところにいる。

 禅には哲学があるが、現代的な論理が明確に説明されない。直観的であり、信じるか信じないか。西田哲学には、論理がある。論理をたどれば、理解できる。事実であろうとわかる。しかし、わかっても、実践ではない、身についていない。
【目次】日本のマインドフルネスの再興を
Posted by MF総研/大田 at 20:01 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL