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(90)すべての人の自己の根底に超越的なものがある [2016年07月04日(Mon)]

(90)すべての人の自己の根底に超越的なものがある

 世界=絶対的一者の立場、そこから日常生活、道徳、学問も、

 人は自己自身だけで生きているのではなく、自己の底に超越がある。ヴィクトール・E・フランクルもいう。内在の奥に超越がある。内在は直線的限定である。時間が未来から過去へ直線的に流れていくと思う。知的自己、意志的自己である。ふつうの人は、ここまでであると思っている。だが、その働きは、絶対的一者、超越にささえられている。西田哲学では「円環的限定」という。 自己のない働きである。時間も消える。言葉や学問もない、その前の現事実、井筒俊彦の「無分節」。 意識作用で見えないだけである。 「道徳」とは、いかに見る、考える、行動するかである。見方、実践もある。だから、どのような「マインドフルネス」であればいいかも、そこから出て来る。各流派が違っても、それは自己の思考作用だから個人によって主張がちがう。数々の心理学があるが、それと似て、足場、思想の違いである。だが、どの流派も、知らずに根底の超越の働きを使っている。

 高性能のコンピューターのオペレーティングシステム(OS)のようなものをユーザーは知らないが、アプリケーションシステム(AS)で使う。間違った入力をすると間違った結果で出てくる。しかし、その時も、奥のOSは、作動している。間違った文章であろうとも、OSとASの合作である。奥の絶対は同じであるが、人の意識作用が、さまざまなビジネス、教育、医療、宗教、マインドフルネス流派を作り出す。マインドフルネスの各流派があるのは、各人が思考によって好みの理論を作るからである。それでも、奥の円環的限定は正しく動いている。

 西田幾多郎博士はこういう。
 「自己が自己自身の底に自己を越えるということは、単に自己が無となるということではない。自己が世界の自己表現点となることである。真の個となることである、真の自己となることである。真の知識も道徳も、かかる立場から出て来るのである。そこから絶対者の自己否定の極限として人間の世界が出て来る、我々の自己は絶対的一者の自己否定的多として成立するのである。故に、我々の自己は一者に逆対応的である、・・・」 『場所的論理と宗教的世界観』(旧全集11巻449頁)

 自己の奥に絶対(上記では「世界」ともいう、宗教者は、神、仏という)が働くのを自覚して、真に自己がわかったという意識になる。悟り、回心などという。すべての人間の事実なのであるが、知らない。教えてくれる人も大変少なくなった。このみすぼらしくみえる自分が絶対(世界、仏)の表現点である。自分がいつも絶対者(仏)と一体である。自己も絶対も単独では存在しない。自分は絶対と一つであった、これが「真の自己」である。自己も見えるもの、あるもののすべてが、絶対者の表現となる。大乗仏教の経典は、このありさまを「仏国土」というのであろう。すべての人が仏国土を持つのであろう。

 承知のように、日本では、鎌倉時代から多くの禅僧がこのことを言ってきた。道元、親鸞、大燈国師、盤珪禅師、至道無難、、、。

 昨日、マインドフルネスSIMT研究会で説明したが、2層になっているのだ。内在と超越、自己と絶対無(絶対的一者)。井筒俊彦は、分節(1)と無分節、さらに、分節(2)をいう。分節(2)は、無分節を通してみた現実。見え方は、違ってくる。西田哲学では、 働きから、直線的限定(内在、ふつうの人の知覚、思考、感情、意識作用)と円環的限定という。現実は、内在即超越。現象即実在、ここを井筒俊彦は、分節(2)という。道元禅師も「現成公案」で、この3つを言う。

 うつ病、不安症/不安障害、過食性障害、痛み、家族の緊張不和などの改善のマインドフルネスSIMTは、超越への探求を用いない。生命、死、自己存在にかかわる問題には、超越のマインドフルネス探求行う。禅でも、悟りの前も後も「正念相続」という。正念はマインドフルネスである。その内容が、歴史的に変遷してきた。もう、古代インドにかえることはできない。それぞれの時代と場所のマインドフルネスに衣装がえしなければならない。

 図で示してみました。

西田-B01-道元禅師と西田哲学.jpg
【目次】日本のマインドフルネスの再興を
Posted by MF総研/大田 at 11:32 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL