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(89)ある人が禅者の怠惰を怒る [2016年07月02日(Sat)]
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(89)ある人が禅者の怠惰を怒る

 日本人は深い自己の哲学を持っているのに、禅僧の怠惰に怒りを覚えるという。欧米ならば、キリスト教神学があり、宗教者によって緻密に論じられているようだ。 ところが、同じような立場にある宗教者であるはずの禅僧が思想的に論じることなくすませていることは怠惰であると怒りを覚えるひとがおられる。

 「私はここに、「不立文字」のかくれみのに眠りこける、今日の禅者の思想的な怠惰に対して、言いようもない腹立たしさを覚える。」

 禅や浄土真宗で救済される構造を西田幾多郎博士が論理的に記述したが、現実には活かされていない。哲学は、ただ、研究者のあいだけの文字の研究になっていて、宗教者が社会に向けてこれを活かそうという専門家からの発言が少なく、実際の日本人を動かしていない。

 西田博士の孫の上田氏の嘆きも別に見た。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/2367

 深い禅や浄土真宗による救済の構造、すなわち、すべての人の精神の構造を明らかにした西田哲学が、禅僧も理解せず、現実に活かされていない。禅僧が禅の構造を知らない。 これは他人事ではない。マインドフルネスで指摘され始めた、「すべての人」の、自分の心理、自分の真相の問題である。これをないがしろにしているから、日本にも、エゴイズム、不正などが蔓延している。さまざまな領域で精神が関係する苦悩や精神疾患などを改善する治療法が開発されない。
 宗教は、普通の人が見えていない人間の真相を探求してこなかったのか。一般人と同じレベルなのか。宗教者の禅は、欧米の「マインドフルネス者」のものと同じ程度なのか。

 今、日本にも世界にも、心、自分の探求が「マインドフルネス」という新しい服装でブームだ。日本には、それを生かすはずの仏、絶対者があった。日本の宗教は、このブームに対して何か助言できないのか。専門家ではない者ならば、対象的意識作用(直線的限定)、ふつうの人が見えている感覚、感情、思考、行動の程度ならば、何も宗教がなくても、さまざまな偉人、心理学者の人生論、欧米のマインドフルネス実践者のもので足りる。禅は無用となり、 欧米のマインドフルネスにとってかわられるのか。 日本の禅でないと、知らない「自己・人間」の真相がないのだろうか。
 「ある」「あった」。日本の宗教や西田哲学にある、あった。幾人かの先達が明らかにしてきた。西田博士は、禅や真宗を西洋を含めて全人類にも通用する哲学に高めた。鎌倉時代のすぐれた宗教に現代に通用する人間哲学があった。西洋の、エクハルト、ヴィクトール・E・フランクルにも同様の思想がみられるからである。
 すぐれた宗教、自己真相の哲学があるのに、専門家であるはずの人が、先人のすぐれた思想哲学を探求して現代に活かそうとしない。「今日の禅者の思想的な怠惰に対して、言いようもない腹立たしさを覚える。」

 マインドフルネスの自己洞察瞑想療法(SIMT)は、宗教ではない。「超越」「絶対者」を扱わず、深いものではない。精神療法、心理療法である。宗教のような神秘的なことは何も含まない。これでも、うつ病、不安症/不安障害の人が治るひとがいる。
 しかし、その先がある。日本の宗教が扱った実存の領域。生命の問題、自己の生命の死の問題。それを扱う禅やマインドフルネスでないと救済されない現代人が医療関係者のかたわらに多い(生命の問題で苦悩する若者は医療関係者のそばにもいない)。うつ病者の自己存在の抹殺(うつ病の自殺)、がん患者の死の不安,ターミナルケアの対象の人たち。心理学者も、医学者も、宗教者も手をさしにべていない。宗教の問題である。宗教がとりくんでほしい。欧米のマインドフルネスは自己存在を扱わない。二元観しかないからである。日本には、二元観でない哲学を鎌倉時代から実践し体験してきた伝統がある。日本の専門家が、二元観でないマインドフルネス実践法を開発してほしい。
【目次】日本のマインドフルネスの再興を
Posted by MF総研/大田 at 08:00 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL