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(87)最も内奥の自己「場所の自己限定」・円環的限定 [2016年06月30日(Thu)]
★7月3日は、マインドフルネスSIMT研究会(A1)です。

(87)最も内奥の自己「場所の自己限定」・円環的限定

 禅を徹底的にする人は「正念相続」といいました。もっとも深いところまである、日本的マインドフルネス、禅で探求した自己の真相の論理的説明。西洋人でさえも、西洋のキリスト教的、二元観にゆきづまったのに、欧米から輸入されているマインドフルネスは、二元観。自己を問題にしないで、職務的スキルの向上の問題には、きっと広く貢献できるでしょう。
 しかし、観察する「自分」を処理できません。観察する自分が嫌い、観察する自分がうつ病、観察する自分ががんで死ぬ。一体「自分」とは何か。欧米の人が禅に期待したような二元観でない生き方には、用いることができません。
 欧米のひとはやはり深い禅に期待するはずです。西田哲学を活用して、欧米に日本的な深いマインドフルネスを伝えていきたい。昭和のひとが、欧米でかなり活動してくれていました。

 大変難しいですが、西田幾多郎博士が、人間の根底の働きをどのようにいっているのか、いったんを書いておきます。「自己」は対象的でないので、言葉では難しいのです。歴史的に、インド仏教、、大乗仏教、禅と伝える方法が考えられてきました。言葉ではそのものを伝えられないのです。だから、西田哲学もわかりにくい。こんなブログで理解してもらえるとは思えません。詳しく書かれた原文を読まないとわかりません。西田哲学を勉強してみたいというひとが、2,3人でも現れるといいのですが。理解することだけなら、西田哲学の研究者が多勢おられます。解説書も多数あります。しかし、それを読んでも自分の生活を満足させてくれません。二元観の思考作用で理解しただけだからです。絶対とひとつであるという「自分」に実際、生活化されないからです。西田哲学を生活実践化するひとは、まだおられないでしょう。それが、日本の伝統に根ざす「マインドフルネス」でしょう。西田哲学は禅の哲学を論理化したというのですから。これを 後世に伝えていきたいものです。

 西田博士には、多数の論文がありますが、禅の悟りで体験する絶対無を詳しく説明した「永遠の今の自己限定」の論文でみてみます。肝だけをみます。あとは、実践し体得です。対象的みかたを捨てる実践です。西田博士は「至誠」といっています。竹村牧男先生によれば「至誠」は、道元禅師にも親鸞聖人にもあるそうです。我見我執己見を捨てる至誠の実践は類似するのです。1年で体験できる人もいるようですが、中国の禅語録を見ると30年かかる人もいます。そういうのは、出家でない現代の人には向いていないでしょう。西田哲学の実践化の場合も「体験」は、時間がかかりそうです。哲学の理解は、肝をみつければ半年なり、1、2年でできるでしょう。体験で検証するのは時間がかかります。こういっているのは、深いところです。何度もいいましたように、うつ病などを治す意志的自己レベルのマインドフルネスSIMTは、10か月で習得できます。対象的、二元観です。

直線的限定と円環的限定

 禅の覚者、西田幾多郎博士などによれば、我々の「こころ」は、2層に大別できる。直線的限定と円環的限定です。対象的と対象にならない働きです。ヴィクトール・E・フランクルも精神の奥に超越があるといっています。 西田博士は、「永遠の今の自己限定」で次のようにいっています。「ノエマ的」とは対象的ということです。見られる側がノエマ、作用側見る側が「ノエシス」。

 「無の自覚的限定として之に於てあるものは、いつも二つの仕方に於て限定せられて居ると云うことができる。或は限定するものなくして限定するものは二つの方向に於て自己自身を限定すると云ってよい。一つはノエマ的に自己自身を限定するものとして絶対無の自覚のノエマ的限定線に沿って弁証法的に自己自身を限定するのである。之を直線的限定と考えることができる、所謂時間的に即ち歴史的に自己自身を限定するのである、かかる意味に於て自己は行為的と考えられるのである。

もう一つは絶対無のノエシス的限定に沿って円環的に自己自身を限定して行くのである。自己自身を中心として弁証法的運動を包む意味に於て自己自身を無限大に拡げて行くと考えることができる。」
(「永遠の今の自己限定」〔旧全集6巻:195-6p〕

 ふつうの人は「直線的限定」しか知らない。意志作用や行為的直観を用いる。時間が直線的に流れていくと思っている。自分の価値観で選択した狭い領域で対象的な知覚、思考、行為をする。 だが、知らないことがすべての人の内奥で動いている。絶対無の働きであり、場所の自己限定、円環的限定という。無限大のひろがりをもっている。対象的な働きではない。自分がなくなっている。死という。自分がない。念仏で回心した人が、阿弥陀仏のふところの中にいて、働きをもらっているという感じである。すべて、人が、見聞きし行動できるのも、知らない働きがささえているからである。円環的限定を体験するのが、禅の悟りである。西田博士があげるのは、道元禅師、大燈国師、盤珪禅師など。

 このブログも、対象的に読んでもらえます。しかし、この背後で、日本財団のシステムが動いていて、文字を映しています。二元観の意志的自己レベルの働きはそのようなもの。しかし、もっと深く、そのシステムを動かしている根幹のシステム、オペレーティングシステムのようなものがあります。そんなふうに考えればいいでしょう。精神の奥に超越があるというのです。それが矛盾するようであるが自己同一、一方だけでは存在しない。コンピューターのシステムも似ています。アプリケーションだけでは使いものにならない。基幹システムだけでは、ユーザーの現実生活に使えない。見えないところ、意識できないところで自分を動かしている働きがある。円環的限定、絶対無、絶対的一者、仏の働き。

 こういうことを理解しても、文字の理解は、直線的限定の思考を用いるので、全然、体得されない。西田哲学の研究者は、それを体得する方法を指導してくれない。文字の研究と生活実践とが別であるのが、学問研究。一つにしようというのが「マインドフルネス」「禅」。 実践、体得したいという人が実際の実践(=マインドフルネス、禅)に向かう。この深い領域の哲学研究と実践は、研究会で探求する。4日もこれについて説明して、その方向への実践を説明し実践していただく。道のりは長いと思う。直線的限定をマスターして、他者にアドバイスするのは、1年で十分である。うつ病、不安症/不安障害、過食性障害などのかたの完治に向けてのマインドフルネスをアドバイスできる。これでも、欧米のマインドフルネスよりも意識現象が深いから、欧米のマインドフルネスで扱えない問題を扱うことができる。
 しかし、円環的限定を体験するのは、もう少し時間がかかる。宗教的であるが、哲学を理解しながら実践していく点で、従来の2つの禅宗の方法とは違う。現代人には、第3の方法が向いていると思うから。私がそうであった。西田哲学の2階建てを説明した哲学書を読み理解し信じ行じていった。盤珪禅師も別な方法であった。道は数多くある。親鸞聖人の方法、キリスト教の聖書を同様に理解して(神を外に見ず根底に見る)実践していく方法。

 意識的二元的作用と、意識できない働き。もう少し西田博士の原文を続けます。(続く)
【目次】日本のマインドフルネスの再興を
Posted by MF総研/大田 at 06:27 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL