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(86)自分を基体化しやすい専門家、学者 [2016年06月29日(Wed)]

(86)自分を基体化しやすい専門家、学者

 専門家、学問する人は、自分を絶対視しやすい。偉大な自分がずっと継続してあると勘違いしている。釈尊以来、人間は「無我」であると見てきました。 解脱体験した時に、はっきりとわかるのであるが、すべての人間が解脱にかかわらず、基体的、単独で生きる継続的自己はないと教えてきました。
 一瞬一瞬、自己が消えている。世界も自分も消えている。時間も消えている。それが、自分の根底で起こっている。これを絶対の働きだという。その絶対の働きで、自分も時間(過去、未来も)も消えるから、過去のトラウマから救済される。その絶対は、時間、世界、自己を作り出す。創造者である。 そのうえで、各自、自分の思惑で行動する。個体の働きがされる。自己は絶対者の働きの中でおどっている。
 対象的に意識される世界がそのままあると思うであろうが、その内奥に絶対無(絶対者)がある。自己の心の上に世界、他者、学問などがあると思うであろうが、その自己とすべての根底に絶対無がある。
 西田幾多郎博士は、道元を、最も深い自己を究めた人とみている。 意識的な自己が消滅する体験が、「身心脱落」と表現されている。 根底で、人間の評価がまったくない、主観的、独断的、自己中心的、自己保身的な評価的判断のないことが与えられていることを知る。 科学の定義、公理、概念もない、その取り決めがされる以前に働きが、自己の底で与えられている。「無我」で代表されるが、無分別、無分節、無世界、無時間、無苦悩、無評価でもある。
     「分別知を絶するということは、無分別となるということではない 。道元のいう如く、自己が真の無となることである。仏道をならうと うは自己をならうなり、自己をならうとは、自己をわするるなり、自 己をわするるとは、万法に証せらるるなりといっている。科学的真に 徹することも、これにほかならない。私はこれを物となって見、物と なって聞くという。否定すべきは、抽象的に考えられた自己の独断、 断ずべきは対象的に考えられた自己への執着であるのである。」 (西田幾多郎)
 西田博士が引用した、道元の「正法眼藏第一 現成公案」の一部はこうで ある。
    「諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。
     萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし(A)。
     佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。
     しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。  自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。迷を大悟するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。諸佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。」(道元)

     「佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは 、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるる なり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をし て脱落せしむるなり。」(B)
(A)は、脱落の身心、意識的な「我がない」時、苦悩もない、時間も世界もない。評価による苦脳になる前の事実そのものである。
 (B)に、自己と他者の身心を脱落させるという。自己を脱落すると他の人も脱落 の身心であることがわかる。 すべての人が共通の根源を持つ。大乗仏教は「仏性」ともいう。
 道元と西田博士がいう有様が、すべての人の「存在」、 限界的底面」根底の真相とする。同じことを主張する禅僧が多い。親鸞聖人も同じであると西田博士はいう。
 次も道元禅師の言葉である。人の根底は、対象的な評価を超えている という。絶対の中にあって、迷いがない。誤りがない。
     「仏道を信ずる者は、須らく自己本道中に在って、迷惑せず、妄想 せず、顛倒せず、増減なく、誤謬なきことを信ずべし。」
 次は、西田博士の言葉である。真偽がない。科学や学問の真理もない。そういうものは、ある個人(たち)が主観的に作った「対象的価値」。
     「宗教的意識においては、我々は身心脱落して、絶対無の意識に合 一するのである、そこに真もなければ、偽もなく、善もなければ、悪 もない。宗教的価値というのは価値否定の価値である。価値否定の価 値といえば、背理の如く思われるかも知れぬが、いわゆる価値という のはノエマ的方向に考えられた対象的価値である。・・・かかる方向 にあるものは、いつも当為的価値の否定の立場に立つものでなければ ならない、存在価値は当為的価値を否定するごとに高まるのである。 」

     人間が対象論理的に作った「宗教」や神もない。

     「真に絶対無の意識に透徹した時、そこに我もなければ神もない。 しかも絶対無なるが故に、山は是(これ)山、水は是水、有るものは 有るがままにあるのである。」
 「あるがまま」というが、これは、ブームとなっている「マインドフルネス」でいうものではない。マインドフルネスは「対象的」に見ている。ここでいうのは、対象的にみられる以前である。
 すなわち、人はみな、根底に絶対、神のごときものを持つ存在である。人間の評価はすべて相対 的、対象的なものであって、自己存在そのものの真実ではない。 こうした自覚によって、 自己自身のすべての評価(罪の意識や差別観、無価観、科学学問のしばりなど)から解放される。
 こうした深い自己存在、すべての人の人格的自己を示唆している宗 教や哲学を、現代に、心理療法として、また、自己実現の生き方に、 さまざまな領域の人格がかかわる問題の解決のために用いていきたい。 その表面的、対象的なものが、ブームの「マインドフルネス」であろう。
 人間の自己の根源のことを欧米のマインドフルネス者が再評価してくれたといえる。しかし、欧米のマインドフルネスは、まだ日本人が長い年月探求してきたものまでははいっていない。
 日本には、道元禅師、親鸞聖人、盤珪禅師、西田哲学など深い人間哲学があるので、そこから、現代人に活用される方法を開発していかねばならない。無我、無過去、無価値、無生死などの根源を持つのであるから、深刻な苦悩を解決する支援法を開発できるはずである。どうも、キリスト教の背景を持つひとのほうが、先行しているように見える。
 「マインドフルネス」がブームになってきた現在、その理論的根拠となる西田哲学を再検討、再評価すべきであると思う。 そしてまた、宗教と宗教以前とをよく理解して、すすめるのがいいと思う。
【目次】日本のマインドフルネスの再興を
Posted by MF総研/大田 at 18:15 | 新しい心理療法 | この記事のURL