(83)禅者の思想的な怠惰に対して言いようもない腹立たしさ [2016年06月25日(Sat)]
![]() (83) 禅者の思想的な怠惰に対して言いようもない腹立たしさ=精神の奥に超越がある、世界の奥に根源がある 多くの人は「善人」である。社会的にすばらしい活動をしていて、幸福であるから、もう救われない。マインドフルネスの実践を真剣にしないから。 自分は「悪人」である。自分は親や配偶者から、上司からも否定された。だめ人間である。社会的にはよきことをして認められてもいるが、自分は汚い。こうした自分は「悪人」である。このような人は救われる。つらいから解決しようとしてさがすからである。そして、めぐりあう。禅、念仏、キリスト教、深いマインドフルネスに。宗教レベルである。 迷う、汚い、自分の「精神」の奥底がある。根源がある。自分、過去がすべて消される、新しい自己と世界が始まる。終末期と創世記が常に自己の底で行われている。ここを自覚したものは「人格的自己」である。大乗仏教では「無生法忍」といい、不退転の菩薩と出てくる。禅は「覚」 「悟」といった。西洋でも、エクハルトやヴィクトール・E・フランクルがこれを言った。 ポーランドにスタニスワレ・レムもそうである。https://blog.canpan.info/jitou/archive/3655 ふつうの偉い人、立派な人(社会で活躍する専門家)は、悩まないから、意志的自己である。魂のような意志的自己が究極だと思っている。 立派な人はやろうとしない自己の根源を求めて、「悪」の人、苦しむ人は、努力を捨てる努力をしてくのが、人格的自己のSIMTである。念仏でも深い禅でも行われた。こういうことが必要なひとがいる。死に直面している人、自己を否定された人、罪の意識に責められる人、死後のことが気になる人。 鈴木大拙、西田幾多郎、西谷啓治など、論理的に解明してきた。その宝が捨てられている。禅者さえもこれを言わない。だから、国民の深い悲しみに応えない。さがしまわる国民は、外来のマインドフルネスに期待をつなぐ。しかし、西田博士が解明した自己根源のものではないようだ。 次のように言った人がいた。もう、わかっているのに、実践し、伝える努力がされていないという。 「私はここに、「不立文字」のかくれみのに眠りこける、今日の禅者の思想的な怠惰に対して、言いようもない腹立たしさを覚える。」 西田博士の孫の上田氏の嘆きも別に見た。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/2367 深い禅や浄土真宗を明らかにした西田哲学が、現実に活かされていない。 (続く) 【目次】日本のマインドフルネスの再興を |