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(66)マインドフルネス精神療法研究会(D1) [2016年06月03日(Fri)]

(66)マインドフルネス精神療法研究会(D1)

次回は6月5日(日)です。
 13時15分から。


http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/senmonka/soudanin-club.htm

 レベルが高い(治したい方向けではなく、専門家向け)ので、正会員、賛助会員の集まりです。日本の西田哲学を基礎にした深いマインドフルネスの実践と哲学を研究していきます。
マインドフルネス瞑想療法士の人はゲストとして参加できます。

5月21日の発表大会にご参加のかたも参加できます。大会では簡単にしか説明しませんでした。 詳しく説明します。

なぜ、仏教は変遷したのか、自己、世界の見方哲学が変化しました。
初期仏教と大乗仏教の大きな差異、世界の見方がちがってきました。マインドフルネスの実践も違ってきました。
日本には、このようなところまであるわけです。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3361
どういうことかこれとの関連になります。仏は絶対者、絶対無の場所。自分という実体がなくなり、意識されるものがすべて仏のものとなる、どういうことか、対象的評価を全然しなくなっています。この人は「死」の問題も解決しています。 がん患者さんの心のケアに活用できます。 完全なるマインドフルネスになります。感覚、動作のマインドフルネスの指針は、この根源からです。

6月のテーマ

 上座部仏教の「法」(ダルマ)の実体視と大乗仏教の法も空、とはどういうことか。
さらに西田哲学の絶対無、円環的限定との関係。
マインドフルネスの実践方法が違ってきます。
最終目的が違っています。

 マインドフルネスは、各種の瞑想と類似します。よくアドバイスしてあげないと、不満足を覚えるクライエントが、かえって誠実なマインドフルネスを逃避、回避したり、カルト宗教へ向かうきっかかけになるかもしれません。
 ロゴセラピーのヴィクトール・E・フランクルは、宗教でない心理的介入と、宗教との区別をよく知って、医者、心理療法者は、宗教的なものには介入しないという方針でしたね。

事実をよく知ってクライエントにアドバイス

 マインドフルネス者も、宗教と宗教でないこととの区別を知っていたいものです。
 「マインドフルネスは宗教ではありません」というが、では 数々の質問、疑問が出てきます。
「宗教とは何ですか」
「宗教は悪いものですか」
「千利休、松尾芭蕉、宮沢賢治も宗教に基礎がありますが、いけないですか」
「マインドフルネスという看板で、なぜ、宗教者の行事に参加するようにPR するのですか」
「なぜ、自分のところに来なさい」といわずに「宗教者の行事に いくようにPRするのですか」
 (以上、2つは、その後、どうなっていくかわからない。自分でひきうけrば、ゆくすえがわかります。)
「なぜ、日本の禅、真宗などのお寺にいきましょう。あれこそ日本人が親しみを持って実践してきた日本的なマインドフルネスです。」といわないのでしょうか。
科学学問も宗教を基礎にしなければならないと西田博士はいいました。自己の独断・我執がないから、偏見のない立場の学問だからです。それなのに、マインドフルネスは、なぜ、宗教ではないことを誇るようなことをいうのでしょうか。
「なぜ、宗教ではないことを誇るようなことをいうのですか」

 西田哲学が教えてくれそうです。
【目次】日本のマインドフルネスの再興を
Posted by MF総研/大田 at 06:29 | 新しい心理療法 | この記事のURL