いささかも己見を存せば人の言葉耳にはいらざるなり [2016年04月29日(Fri)]
いささかも己見を存せば人の言葉耳にはいらざるなり「いささかも己見を存せば人の言葉耳にはいらざるなり」道元禅師の言葉を 一字変えたものです。 会合の場で、自分の意見を強く言って、他者の話を聞こうとしないことがあります。 会合、講座、講習に出てきているのに、我見我執己見があると、他者のいう新しい(従来の自分が知らなかったこと)ことが、耳にはいらないのです。 組織にとって、あぶない事、脅威的な出来事が起きているのを訴えても、改善の意見をいおうとしても上司、幹部は聴こうとしない。 新しいことを吸収して成長できない。自分の未熟、おかしな方向を変える機会を逸することになります。 まず、他者のいうことは聞いてみる。その後で、捨てるか賛同するか、修正して自分の成長にするか、決めればいい。まず、我見我執己見を捨てて聞く。そのように道元禅師、西田博士が教えてくれます。 道元禅師の教えは、マインドフルネスの視点からみても、とても深い心理現象をありのままに観察するように言っています。 「我見我執己見を捨てよ」、さもないと、事実をみない。我見我執己見のフィルターで見るから。 西田幾多郎博士は、「自己の独断・我執」を捨てるのが、深い東洋哲学の事実に至る実践であったといっています。類似します。マインドフルネスで観察するのは、感覚、身体動作だけではなく、我見我執己見があると観察することこそ核心なのだと西田博士がいっています。 学問にも我見我執己見があるので、周囲の人に不愉快な思いをさせる、社会の発展をおくらせている、そう西田博士はいっていたのだ思います。今もあります。学問も我見我執己見による解釈もありえます。マインドフルネスの研究にはそういうものがないように祈ります。 マインドフルネスは、仏教の歴史的変遷があり、それを応用するのですが、 法則らしいものを設定します。それも一つの立場です。執着すると我見我執己見になります。それからはずれる(さらにその法則を越えた)人間の事実の究明を妨害します。捨てて捨てて、捨てる、捨てる。とても難しい。自分の立場の死守、いきがいですから、捨てることが難しい。 「マインドフルネスは宗教ではない」という言い方も考えものです。 西田博士は、宗教が絶対の事実だといいます。「マインドフルネスとは」というのも、数々の立場があります。対象的な定義は、絶対の事実ではないのです。それぞれの問題に応じたそれぞれの定義が妥当でしょう。いくつかのマインドフルネスにも、得意領域がありそうです。発達障害のマインドフルネス、うつ病のマインドフルネス、自己嫌悪のマインドフルネス、死の問題のマインドフルネス、ビジネス現場の従業員の生産性、経営者の、教師の、医師の、宗教者の、政治家の・・・。同じではなさそうです。 がん患者の死の不安の問題は、感覚や身体動作を観察するのではなくて、死ということ、生きていること、自己存在をあるがままに観察し考え生きる行動するのでしょう。感覚、動作を評価せずに観ることを越えています。西田博士の至誠は、独断・我執を捨てて見る、考える、働くですから、見るマインドフルネスを排除せずに包含しています。「評価せずに」が独断・我執を捨てて、に類似します。独断・我執でない評価はするでしょう。自我による評価ですから、とても難しいです。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3669 ★「学者は平気でウソをつく」 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3674 ★自由にモノが言えない日本の組織 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3679 ★「個人を幸福にしない日本の組織」 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3675 ★「寺よ、変われ」 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3661 ★マネハプ『週イチ・30分の習慣でよみがえる職場』 =「本音」を言える組織になるか 【目次】日本のマインドフルネスの再興を |
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