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(28)学問がマインドフルネスに指針を [2016年03月17日(Thu)]

(28)学問がマインドフルネスに指針を

 西田幾多郎博士が生きていた昭和の時代、禅も対象論理的に浅く解釈されて核心を失いました。今も変わっていません。禅がそのようなものであれば、 西田博士や鈴木大拙が世界に紹介したような深い禅とは、違っています。
 神秘的そうにごまかさず、徹底的に論理的に説明しようとした禅にも(真宗教にもキリスト教聖書にも=教会の解釈でない)ある人間存在の哲学を記述した博士の言葉の続きです。
     「我々は、対象論理的に、我々の自己を対象的存在と見るところから、どこまでも生死するのである、無限に輪廻するのである。そこに、永遠の迷いがあるのである。・・・・ 対象論理的に限定せられたもの、考えられたものを、実在としてこれに執着するところに迷いがあるのである。」『場所的論理と宗教的世界観』(旧全集11巻421頁)
    <ここまで前回>
    「宗教においてのみならず、科学的真理においても、かくいうことができるのである。我々は自己の永遠の死を知る。そこに自己がある。しかし、その時、我々は既に永遠の生においてあるのである。矛盾的自己同一的に、かく自己が自己の根源に徹することが、宗教的入信である、回心である。しかして、それは対象倫理的に考えられた対象的自己の立場からは不可能であって、絶対者そのものの自己限定として神の力といわざるを得ない。信仰は恩寵である。我々の自己の根源に、かかる神の呼び声があるのである。私は我々の自己の奥底に、どこまでも自己を越えて、しかも自己がそこからと考えられるものがあるというゆえんである。そこから、生即不生、生死即永遠である。」 『場所的論理と宗教的世界観』(旧全集11巻421-422頁)
 西田幾多郎、鈴木大拙、西谷啓治、久松真一などが科学的、学問的に記述したように、自己存在の真相はこうである。日本のマインドフルネスの奥深さである。だが、多くの人がこの宝を捨てた。

 「自己の死」が、いつも我々の瞬間におきている。自己の努力、自己の意志で連続して生きているつもりである(「直線的限定」という)が、実は、一瞬一瞬、自己が消えている、世界も消えている(道元禅師が「万法ともに我にあらざる時節」といったもの)、そして次の瞬間、自己、世界、時間が生まれるということがおきている。自己の力ではない、絶対者の力である。これを西田博士は「円環的限定」といった。多くの人は、これを知らない。これを体験するのを見性(中国襌)、回心(浄土真宗)、身心脱落(道元禅師)、無生法忍(大乗仏教)、真見道(唯識)という。

 これを体験したものを、大乗仏教では「仏」といった。西田博士は「人格的自己」を自覚するといった。

学問がマインドフルネスに指針を

 日本には浅いマインドフルネスから深いマインドフルネスまであるので、すべてを「海図」のように示すことができる。そういうことが学問的になるだろう。今は、宗教とそうでないものとがいりまじっている。神秘的にみせるもの、いかがわしいものもありそうである。科学者、学者は方向をきちんと示していただきたい。さもないと、マインドフルネスも市民からそむかれる。なぜ、仏教が市民から離れてしまったか、検討しなければならないだろう。

 自己でいえば、判断的自己、知的自己、意志的自己、叡智的自己、人格的自己である。作用でいえば、判断作用、感覚作用、思考作用、意志作用、行為的直観、自覚的直観となる。
 禅には昭和の時代に、西田博士が生きておられた頃やその前に、深いものを教えてくださった人が多くおられた。書物で見ることができる。今は、存命中の方の本を見ることは困難であるが、おられる。埋もれておられる。有名(世間的に顕彰されない)でないから利益にならないから出版社が扱わないか、または編集者がそういう深いものを持つ人を発見できない。

 マインドフルネスでも、自己洞察瞑想療法(SIMT)は、全体の「海図」を示す。ここまで宗教ではない、ここから宗教であると、西田哲学の基準で示す。知って学習していただく。神秘的なこと、かくすことは何もない。 意志作用までは、脳神経生理学的な研究成果とも相互に関連づけできる。 つらく悲しい思いをしているクライエントによく方針を理解していただく。 意志的自己レベルのSIMTは、病気の人もそうでない人も実践すべきである。意志的自己レベルのSIMTを用いないために、家族や職場での人間関係を悪化させている、うつ病不安症/不安障害になる、他者をそれに追い込む。すべての人が、意志的自己レベルのマインドフルネスは実践すべきである。ここまでは、普通である。
 専門家は、その先の叡智的自己レベルのマインドフルネスを知っていただくのがよいと思う。普通の生活者よりも深いが、宗教の手前である人間の作用であるから知っておくのがいいはずだから。他のスキルは、社会的スキルでありポイエシスの技術である。叡智的自己レベルのマインドフルネスは、人間形成の実践プラクシスであり、社会的スキルではない。他では教えない。西田哲学にしかない。組織の人間が組織内を見ていると弊害を起こす、一種の組織論もある。組織の人間は、組織内を見るな、組織のために働くな、社会を見よ、世界のために働けという。叡智的自己は、専門家のすべてがこうでなければならないのでは? 組織内を見た人間が多い企業、組織は、外部の動向を把握せずサービスが時代遅れとなり、不正を起し、事業が低迷して、縮小、倒産していく。
 叡智的自己レベルのマインドフルネスを活用すれば、現在提供している自己の事に、一段と深いものを加えることができる。集中力、想像力、記憶力、意思決定、モチベーション、コミュニケーション能力などのような対象的技術力の向上ではない。
 観察しようにも気づきにくい、自己や他者、組織、科学学問におけるエゴイズムの発動と予防を知る良心の成長であろう。悪にある自己は自己の悪に気づかない。気づくのはそれから離れた光である良心であるから。宗教の手前でも、良心が照らす。組織人の不生も組織人としての良心の欠如である。
 良心によって、自分の悪(汚い自分、卑怯な自分、だめな自分)を責める苦悩は、もう、浅いマインドフルネスでは解決できない。 薬は適切に用いるべきで、マインドフルネスもそうである。 つらいクライエントが マインドフルネスでさらに苦しむことのないように、マインドフルネスの学問が方向を示してほしい。

 いかがわしいマインドフルネスもあると雑誌、「プレジデント」の記事にあった。日本マインドフルネス精神療法協会の「マインドフルネス瞑想療法士」は、住所氏名が住民票にあり、いかがわしくないことを断定できる。10か月の学習と意志的自己レベルのマインドフルネスの実践をした人である。マインドフルネス瞑想療法士の団体として倫理規程をもって活動していく。 うつ病や不安症/不安障害、過食症などを改善する支援は容易ではない。10か月、1年も続く。そうであるのが、うつ病などの実態なのに、いかにも短期間に治るかのようにいうマインドフルネスは誠実ではない。「いかがわしい」の一歩手前である。エゴイズムの心理のマインドフルネスの観察をして、自分のエゴイズム(自己の収入や名誉の我利我執)に気づいていない。浅いマインドフルネスで2,3カ月で終わらせると再発する。治るまではもっとかかる。うつ病ならば、治るまでサービスする覚悟がいる。10か月、1年かかる。
 他のマインドフルネスも、同業者組合のようなものを作って、一定の倫理規範をもつようにしたほうがいいかもしれない。そうでないと、全体が評判を悪くして、いいものも市民から離れていくだろう。
【目次】日本のマインドフルネスの再興を
Posted by MF総研/大田 at 06:38 | 新しい心理療法 | この記事のURL