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(24)先輩から教えられない「東洋道徳」 [2016年03月08日(Tue)]

(24)先輩から教えられない「東洋道徳」

 西田幾多郎博士は、東洋道徳を次のようであったといっています。いつのまにか、これを 先輩の仏教専門家が教えなくなりました。
    「我々の自己が絶対の自己射映点として、絶対者へ絶対的関係において立ち、唯一の歴史的世界像を形成し行く。それが絶対の同時存在的な自己否定の立場である。かかる絶対現在そのものの自己形成として、理性はポイエシスとプラクシスとの矛盾的自己同一的に、歴史的世界的技術であるのである。しかるに単に意識的自己の立場のみから考えられる時、理性のかかる技術的性質に着眼せられないのである。故に私は理性的となるということは、物となって考え物となって行うということであると考えるものであるのである。技術ということは我々の自己が物となって働くことである、自己が物となり物が自己となることである。見ることによって働き、働くことによって見る、行為的直観的ということである。東洋道徳において天人合一(即天理)ということは、右の如き意味において歴史的世界的に技術的ということでなければならない。それが身心一如の立場からであるのである。東洋的道徳のプラクシスは、義務の為の義務という立場からではなくして、かかる身心一如の立場からであるのである。」(『ポイエシスとプラクシス』(旧全集11巻157-158頁)
 「同時存在的」「絶対現在」という語があるが、これが我々の自己の根底で起きているが、それを知らないのです。日本の禅は、これを探求するマインドフルネス実践でした。深いものまで観察する実践でした。今は、浅い、感覚、身体動作を観察するマインドフルネスがブームとなっているが、 仏教の「正念」の一部しか実践していないと、藤田一照師が指摘したとおりです。支援できる問題に限界があります。うつ病でさえも、再発予防と重症期における完治への支援とは違います。治療と予防、集中力向上、人間形成は別ものです。

 深いものまである日本としては残念な気がします。先輩が、こういうことを教えてくれなくなったからです。でも、マインドフルネスのブームで、マインドフルネスの研究者は、感覚、身体動作以外の観察も重要であるkとに気がつくでしょう。 仏教僧や仏教研究者ではない人材が、深い仏教、深い禅、深い親鸞聖人の実践的研究にとりくむでしょう。するべきことが山積みです。したいことがないなとは、とんでもないです。「人生」が訴えています。「世界」が訴えています。

 先輩も苦しい思いをしたと思います。昔は伝統を守ることが重要でした。伝統が厳しく縛りました。これからは、伝統に縛られる必要がない環境になりました。伝統に縛られて、外部世界の変動に耐えるサービスを提供しない団体は消滅します。構成員は上を見るのでなく、外をみるべきなのです。西田博士がいう、類や種の立場でなく、それを越えた、包んだ世界の立場です。禅、仏教が教えています。「みんなと同じことをいっていればいい」と思い、内部の顔色ばかりを見ている構成員ばかりの組織では、外部環境の変化をみないので、組織全体が沈没します。どの組織もそうでしょう。感覚、動作の観察はたやすいですが、こういう心を変えるのは大変です。これも西田哲学で教えています。西田哲学の実践化のマインドフルネス自己洞察瞑想療法(SIMT)では、当然、これを重視します。根が深いです。

 絶対現在の絶対空間(こちらは絶対無の場所という述語)を詳しく説明したのが、論文「永遠の今の自己限定」です。最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」まで、一貫してある我々の自己の真相です。よくいう「今ここ」は意識的自己が現れてからです。その前があるのです。自分のこと、すべての人間の共通に絶対平等の根源をしらない。すべてがそこからそこへである。宗教も学問もビジネスも。大乗仏教の経典が説く各種の仏の世界です。法華経の世界、華厳経の世界。

   我々すべての自己の根底が西田博士の言葉のとおりであるというのです。我々の自己の根源でいつも、絶対現在の働きが起きています。苦悩がなくなっています。意識的自己がない、絶対者の働きが起きています。世界の終わりと始めが起きています。我々の自己のすべてが、この真の自己を持つ、その根源の自己にならって見、考え、働くのが、大乗仏教の在家仏教者、禅や念仏の人など日本の古人がこころがけてきた生き方であったと西田博士はいうのです(鈴木大拙、西谷啓治も。ご存命の仏教研究者では竹村牧男先生も)。
 これが東洋道徳でした。己を尽くす、至誠の実践、プラクシスともいう。瞑想ではなく、他のために働くことです。己(および己の組織、学問的党派)の立場、利益を優先するエゴイズム的な意識的自己なく、「物となって見、物となって考え、物となって働く」。表面的に世界(社会)を創造(ポイエシス)しつつ、同時に内面では、至誠の自己を形成(プラクシス)していきます。単に瞑想(坐禅)するのではない。ポイエシスしながらプラクシスする、プラクシスしながらポイエシスする、行為的直観ということであるといいます。
【目次】日本のマインドフルネスの再興を
Posted by MF総研/大田 at 07:43 | 私たちの心理療法 | この記事のURL