(20)ポイエシス即プラクシス、プラクシス即ポイエシス [2016年02月26日(Fri)]
![]() (20)ポイエシス即プラクシス、プラクシス即ポイエシスその1) 社会を作ることと自己を作ること、ポイエシスとプラクシス西田哲学は、もちろん瞑想、呼吸法そのものが目的ではない。そういうのはポイエシスではない。西田哲学の自己は、社会に向かって価値実現の行動をしていくことによって、世界(社会)を創造していくことが同時に自己自身の成長、自己実現、自己形成であるような実践をめざすことである。 西田博士によれば、ポイエシスとプラクシスの2つが常に同時に進行していることである。社会創造活動の同時進行形で、同時に自己形成していくありかたである。いつでも、どのような行動時であっても、どこでも、自己形成の機会である。 外向きには、意志的行動(西田哲学では「ポイエシス」(制作、世界創造)という)が進行する。並行して内面で、自己洞察し自己形成(西田哲学では「プラクシス」(実践、内面の自己自身の形成という)が進行していく。 ポイエシスとプラクシスが一如というのは、自己の深さによって内容が違う。意志的自己であっても、この同一を理解できるだろうが、叡智的自己、人格的自己におけるポイエシス即プラクシスは、意味が違ってくる。 注)「即」とは、矛盾的自己同一のこと。矛盾するような2つのことがそのままで同一のありかた。社会創造と自己形成は一つであるありかたは、やはり、特別の方法が必要になる。己を捨てた(日本の道元禅師がいう我見我執己見を捨ててというのもこれだと思うのだが、西田哲学では「至誠」だという)立場になって、社会的行為をすることになる。至誠でない、エゴイズムの心による社会的行為は自己形成とは言わない。無我とはほどとおい。 「我見我執己見」は、無評価、観察ではいけない。ここまでは、はやりのマインドフルネスは言わないだろうが、日本の禅、日本的マインドフルネスはそれも観察せよという。「我見我執己見」は、無評価というわけにはいかない。自分、他者を傷つける。自己の見方、考え方、行為がが「我見我執己見」で汚染されていないか評価し、抑制していく。さもないと、自分や他者を精神疾患に追い込んだり、家庭崩壊や非行犯罪においこんだりする。 我見我執己見は、感覚や身体動作の意識よりも深い位置にある。さらに深い位置にあるのが、意志作用、さらに深い行為的直観、さらに深い自覚的直観という働きがすべての人にあるという(西田哲学)。西田哲学は理解にとどまるのではなく、実践すべきでものである。さもないと、ポイエシスにもプラクシスにもならないからである。 世界創造が同時に自己形成である。その実践指針は「至誠」である。現実には「ポイエシス」と「プラクシス」は同時同一である。私は、簡単には「創造至誠」「至誠創造」ということにする。 【目次】日本のマインドフルネスの再興を |
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