(19)プラクシスとは [2016年02月25日(Thu)]
(19)プラクシスとは西田博士によれば、我々の自己の人生の目的は、世界創造だけでない。自己形成がある。プラクシスとは、我々の自己が自己自身を目的として働くことであり、人間自身の自己形成である。はやりの「マインドフルネス」は、社会的な行動の質を向上させる技術、テクニックとしての用い方が中心となっていて、西田博士のいうポイエシスの質的向上であって、プラクシスの方向、自己自身の形成の方向が鮮明にみられないようである。プラクシスは、深い禅にみられた人間形成ということであるが、ブームのマインドフルネスは、対象的なものを観察するとか、集中力とかいうことに重点があり、自己存在の探求はこれからであろう。技術が向上しても、自分や家族や団体のメンバーや顧客が幸福であるとは限らない。 そこで、ポイエシスがプラクシスでなければならないという西田哲学は再評価されるべきであると思う。 西田博士のいうプラクシスとはどういうことか。 ★「プラクシスというのは我々の自己が形成されると共に、自己自身を形成することである。」(『実践哲学序論』巻と頁を【10:106】と示す) ★「勝義においてプラクシスということは、人が人自身を目的とする働きと考えることができるであろう。それによって自己が自己となる働きということができるであろう。そこに我々の自己が成立するのである、自己が生まれるのである。」(『ポイエシスとプラクシス』【10:142】 「プラクシスということが、我々の自己が自己自身を目的として働くことであり、人間自身の自己形成にある」【10:149】 「プラクシスとは物を作ることではなく、人間の形相が形相自身を形成することでなければならない。・・・自己が自己を作ることでなければならない。物を作る自己を作ること、ポイエシス・ポイエセオスでなければならない。」【10:141】 形相は本質である。人間が人間の本質を形成することがプラクシスである。 上記の文に、自己が成立する、自己が生まれるとあるが、この自己にさまざまな階層がある。通常、絶対無の自覚の立場(世界の立場)にたっておらず、絶対無の自覚の関係で、世界と自己形成を考えてはいない。 次は深い意味のプラクシスである。超越者との関係である。 「プラクシスは絶対者の自己限定として真のプラクシスである」【10:154】 「超越的関係において、自己が自己であるというプラクシス的方向」【10:153】 「我々の真のプラクシスとは理性のために理性的に、どこまでも超越的なるものの自己射影点としてということでなければならない。」【10:155】 「超越的なるものの自己射影点として」ということは「己を尽くす」ことである。意識的自己の死である。特定の立場に立たないことである。我見我執己見を捨てた立場である。 世界の創造と自己形成とが2つ重要であるが、別々の時に行うのか。たとえば、坐禅や瞑想、マインドフルネスの集まりがあるだろうが、そこが自己形成で、世界の創造は、家庭の生活、職場で働くことであるのか。・・・・・ そうではなくて、西田博士によれば、ポイエシス即プラクシスで、プラクシス即ポイエシスであるという。 対象的に見られるものの観察、無評価は浅いマインドフルネスであり、そこを突破して、観察評価する自己と世界を問題にするのが西田哲学であることになる。日本的マインドフルネス、西田哲学の真骨頂は、対象的マインドフルネスではない。 【目次】日本のマインドフルネスの再興を |