(17)後期西田哲学ではどのような実践を提案するか [2016年02月23日(Tue)]
(17)後期西田哲学ではどのような実践を提案するか西田哲学の最終的立場は、研究者によって最近解明されたと思う。絶対論理主義だという。絶対矛盾の場所的論理であるという(注1)。私は西田博士の最終的立場からの実践を提案したい。そのために、西田博士の最終的立場からの「実践論」はいかなるものであるかを研究したい。後期西田哲学の数々の論文のうち「実践」を扱ったのは、2つある(注2)。 その中にある次の文は結論の要約のようである。
「我々の自己は絶対者への絶対的関係に於て立つ、我々は絶対者の自己射影点として自己であるといっても、絶対と自己との二者択一の問題を解決する人は少ない、宗教的自覚の上に立つ人は稀である。しかし我々の自己の行為はいつもかかる関係に於て成立するのである、此から此へである。何処までも超越的なるものが内在的に、内在的なるものが超越的なるものに自己を持つ矛盾的自己同一的世界の個物的多として、ポイエシス即プラクシス的に唯一の世界を構成し行く所に、我々の歴史的・社会的実践があるのである。学問も芸術も此からでなければならない。」(「ポイエシスとプラクシス」、(旧全集10巻166頁、昭和十五年十月) 自分は単独で存在しているのではなくて、自己が絶対者の物、射映となることである。これは、自分が絶対無である体験、即ち、主観的自我の絶対否定の体験(西田哲学では見性、回心という、悟りのこと)によって、自己が基体的に自存しているのではなくて、絶対者の射映であることを知るのである。この絶対無の体験をして、自己か絶対者かの二者択一の問題を解決する人は少ない。いつも我々は絶対者に触れているが、自覚できるひとは少ない。 絶対無の自覚に至るには、ポイエシスとプラクシスがそのまま一つであるという実践を通してであり、絶対無の自覚の後も、やはりポイエシス即プラクシスである。 こうして世界を形成(ポイエシス)しゆくとともに自己を形成(プラクシス)していくのである。エゴイズムの自己のない立場であるから、学問や芸術もこの立場に立つべきなのである。 ポイエシスとは何か、プラクシスとは何か。 注) 注1)板橋勇仁(2008)『歴史的現実と西田哲学』法政大学出版局。 注2)A『実践哲学序論』旧全集10巻73頁から(昭和十五年八月)、および、B『ポイエシスとプラクシス(実践哲学序論補説)』旧全集10巻124頁から)昭和十五年十二月) 【目次】日本のマインドフルネスの再興を |