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(68))因習的に行動基準を押し付けるのは、個人の死、団体の死 [2015年12月30日(Wed)]

(68)因習的に行動基準を押し付けるのは、個人の死、団体の死

 西田哲学によれば、固定 した団体(種)は生きた団体ではない。 「我々が単に因習的に種的に働くということは、自己の機械化であり、同時に種の死である」。個人は機械化され死に、集団もやがて死ぬ。 因習的に行動するのは、個人の死である。唯一一度的な個としてでなく、多数と同じ一般的人間である。唯一の「私」でない。 〔⇒こちら)
 種(社会、団体、共同体)の中にあって、他者に依存せず、絶対者の射影点となって、働いていく、時代の変化に応じて、種も変化していくことが種が存続する道である。そういうふうに種の中で個人が時代にあわせて世界の立場で自由に行為できることがその種が生き延びていく道である。
    (注)生物は、類、種というふうに共通性で分類します。生物、動物、人類、人というふうに。 西田幾多郎は、人間社会にある集団、団体、社会を「歴史的種」、略して 「種」といいます。生産様式によって、さまざまな「種=集団」があります。 宗教、企業、教育機関、医療、福祉、趣味、そして国。西田の、ここは、組織における構成員はどう行動すべきであるかも示唆しています。内部、上(幹部)を見るな、外(顧客、クライエント、変動しゆく社会の状況)を見よ。
 後期西田哲学で、個人と種(共同社会)と世界の関係をだいたいこんなふうに説明していると思います。団体が統一見解を強要して個人の自由を束縛したり、幹部が我見我執によって構成員の自由を束縛すると、その団体がおいてある世界と遊離していくので、あるいは、自己だけの利益を図る集団であり世界(社会)に貢献しない団体とみなされて、その団体は消滅していくようです。

 団体も世界の中にあります。その世界が変動していきます。団体がおいてある世界は変動していきます。世界が、我々の自己に「どうするのだと」絶えず問いかけているのです(フランクルは「人生から」というが同じことでしょう)。無作用的作用形型、 我々の自己の行動は世界からの問いかけで始まる。いつも世界から問いかけられている。

 団体の行動基準、団体の定義を現在だけに通用する硬直したものにしてはならないのでず。時代、環境(世界)の変動にあわせて、開かれた解釈が可能なものでなければならないのです。それをいう西田幾多郎の言葉をみます。
    「身体を否定した単なる意識的自己というものはない。我々の自己は身体的なるが故に実践的であるのである。・・・我々の身体というのは、矛盾的自己同一的世界が全体的一として自己自身を限定する形である、その自己限定の仕方である。・・・ 社会というのは、歴史的生命の種と考うべきものであり、私は社会を歴史的身体的というのである。」(「『実践哲学序論』旧全集10巻67頁」)

    「社会というのは、我々の自己が無作用的作用形型として、我々の行動がそこからそこへと考えられる一定の表現作用的形式をもった時に、成立するのである。」(「『実践哲学序論』旧全集10巻68頁」)

    「単に歴史的身体的と考えられるかぎり、我々の自己は真に自由ではない、なお意志的でない。真に無作用的作用形型というのは、どこまでも歴史的身体的なると共に、これを越えてこれを包む立場でなければならない。」(「『実践哲学序論』旧全集10巻70頁」)

     「我々が個物的自己として之に従わなければならない、然らざれば個物的自己となることはできない客観的表現、即ち絶対矛盾的自己同一的世界の自己表現というべきものは、我々の自己に対して客観的命令の性質をもったものでなければならない。」(『実践哲学序論』旧全集10巻73頁)

     「それ(*客観的命令)は単に論理的に媒介せられる法則ではなく、その底に人格的自己の自己直観がなければならない。而して真の人格的自己というのは、抽象的な意志的自己の立場に於て成立するのでなく、絶対矛盾的自己同一的世界の個物的多としてでなければならない。いわば我々は神の前に人格となるのである。」(『実践哲学序論』旧全集10巻74頁)(*)は大田付加
 個人は、団体を基礎に行動するが、同時に世界の立場でなければならない。そうであるのに、 社会悪、団体の悪を西田はいう。団体(幹部の個人、やはり人間)が団体(企業、官庁、学校、宗教団体、学的団体、すべての団体)に所属する各個人の自由を束縛するのは、社会悪である。そのような団体のメンバーは、個性を発揮できないから、世界に貢献できそうなことを自由にできない。一般的人間となる。団体がおかれた世界は、変化していくのに、団体のみの固定した行動規範にのみ従うと、個人の確立はない。団体と世界ともに変動していく、そうほうの立場から行動していかないと世界から遊離していく。

 もう、古代、中世にはもどれない、世界環境が激動している。むかしのままの「宗教」(「マインドフルネス」も)では、現代に貢献できない。団体的な基準ではなく、各人が自己だけの根底の真の自己と対決していく時である。西田博士は、70年も前に我々に訴えていた。昔のもの、一般的なものをそのままに踏襲している時ではない、世界環境の動きにふさわしい新しい宗教、新しいマインドフルネス、新しい実践法を開発しなければならない。それが科学的ともいえる。西田哲学においては、最も深い宗教は、ある立場に立たない世界の立場であるから、科学学問もこれに基礎づけられなければならない。
(語句)
★SIMT:Self Insight Meditation Technology/Therapy。日本的マインドフルネス。大田健次郎 (2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社、大田健次郎(2014)『マインドフル ネス 入門』清流出版。
★学問的マインドフルネス⇒この記事
★社会的マインドフルネス⇒この記事
★世俗的マインドフルネス⇒この記事
★宗教的マインドフルネス⇒この記事
 =それぞれの教団によって、哲学とマインドフルネスの方法が違う

★そのまま宗教の実践、思想を用いることはできない

★「人格的自己への原体験」「人格的自己的体験」
「人格的自己の基礎となる直覚的体験」「自覚的直観、創造的直観の基礎となる体験」、仏教 では無生法忍、見性、回心などと呼ばれた。
【目次】西田哲学からみる科学学問、そして哲学
 〜マインドフルネスSIMTと表裏

参考

★(目次)NHK E テレビ、こころの時代「日本仏 教のあゆみ」
 ある特定の集団の立場に立たないで、根源的な人間のありのままの立場から学問をしようと する例のようです。

★(目次)道元禅師のマインドフルネス
★(目次)人格的自己の「マインドフルネス」へ
★(目次)さまざまなマインドフルネス
★(目次)最も深いマインドフルネスの実践の哲学
★(目次)昔から日本にあったマインドフルネス

★(目次)人格とは何か
★専門家は独断におちいりやすい
 =人格的自己でなくある目的、立場の専門家としての叡智的自己だから

★専門家のエゴイズム
 =自分が世界になろうとする構造
★学問における画一主義を戒めるフランクル
★自覚的直観、創造的直観
★高史明さんと金光さんの対談
★人間存在=自己洞察法の構造
★理論と実践
★理論と実践(2)
Posted by MF総研/大田 at 19:48 | 人が怖い | この記事のURL