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(15)我見我執を捨てて坐禅すれば悟る [2015年12月18日(Fri)]

道元禅師のマインドフルネス
(15)我見我執を捨てて坐禅すれば悟る

 道元禅師は、絶対無を証する体験を「見性」といわずに「身心脱落」「悟り」「得法」「得道」「菩提を得る」「證を取る」という。

    「いはく、佛法を住持せし諸祖ならびに諸佛、ともに自受用三昧に端坐依行するを、その開悟のまさしきみちとせり。西天東地、さとりをえし人、その風にしたがえり。これ、師資ひそかに妙術を正傳し、眞訣を稟持せしによりてなり。」(「弁道話」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、462頁。)

    「大師釋尊、まさしく得道の妙術を正傳し、又三世の如來、ともに坐禪より得道せり。このゆゑに正門なることをあひつたへたるなり。しかのみにあらず、西天東地の諸祖、みな坐禪より得道せるなり。ゆゑにいま正門を人天にしめす。」(同465頁)

    「「又、讀經念佛等のつとめにうるところの功徳を、なんぢしるやいなや。ただしたをうごかし、こゑをあぐるを、佛事功徳とおもへる、いとはかなし。佛法に擬するにうたたとほく、いよいよはるかなり。又、經書をひらくことは、ほとけ頓漸修行の儀則ををしへおけるを、あきらめしり、教のごとく修行すれば、かならず證をとらしめむとなり。いたづらに思量念度をつひやして、菩提をうる功徳に擬せんとにはあらぬなり。おろかに千萬誦の口業をしきりにして佛道にいたらむとするは、なほこれながえをきたにして、越にむかはんとおもはんがごとし。」(同466頁)
 下記の目次のように、道元禅師の実践方法(現代のマインドフルネスに類似する)は、坐禅であるが、それを長く実践していると、西田哲学がいうような、意識的自己が脱落する体験が起きるという。

 ただし、形式的な坐禅ではいけない。道元禅師によれば 「我見我執を捨てる」坐禅と生活が必須である。形式ではなく、内面の質が重視される。内面の工夫を西田幾多郎はプラクシス、「至誠」という。

 上記の引用文中に道元禅師は「念仏」を批判している。西田幾多郎は、浄土真宗の親鸞上人を、深い身心脱落の人と高く評価している。鎌倉時代の道元禅師には、親鸞上人の「教行信証」などを見る機会はなかったであろう。 親鸞上人の教えにも「至誠」があるというから、形式は坐禅と念仏(ポイエシスに近いのだが、世界創造的行為といえるかは議論の余地がある)であるが内面は至誠の実践(プラクシス)、そして意識的自己の脱落、絶対者に包まれる、ということは、道元禅師、親鸞上人に共通であろう。西田幾多郎はそうみている。

現代の経済生活を足場にした社会的マインドフルネス

 西田幾多郎によれば坐禅でも念仏でも、最も深い絶対無の自己を証得することができる。念仏は瞑想坐禅ではない。ここに坐禅できない現代人でも、深いマインドフルネスを実践できる可能性がある。表面の坐禅や念仏ではなくて、内面のプラクシスである。西田幾多郎が一言でいえば「至誠」という実践である。道元禅師、親鸞上人にも、それがある。現代人は「至誠」のプラクシスを実践しながら、表面では家族関係、友人関係、職場の人間関係を営みながら、家庭では育児家事し、組織では労働するポイエシスの社会創造の働きをすればいいことになる。私が「行動時自己洞察」といううち、「行動時」がポイエシス(労働や対人関係)であり、「自己洞察」がプラクシス(内面の至誠)にあたる。

 経営者にも、エゴイズムの経営者があり、至誠の経営者がある。家庭人にも、エゴイズムの家庭人があり、至誠の家庭人がある。
★(目次)道元禅師のマインドフルネス

(語句)
★SIMT:Self Insight Meditation Technology/Therapy。日本的マインドフルネス。大田健次郎 (2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社、大田健次郎(2014)『マインドフル ネス 入門』清流出版。
★学問的マインドフルネス⇒この記事
★社会的マインドフルネス⇒この記事
★世俗的マインドフルネス⇒この記事
★宗教的マインドフルネス⇒この記事
 =それぞれの教団によって、哲学とマインドフルネスの方法が違う

★そのまま宗教の実践、思想を用いることはできない

★「人格的自己への原体験」「人格的自己的体験」
「人格的自己の基礎となる直覚的体験」「自覚的直観、創造的直観の基礎となる体験」、仏教 では無生法忍、見性、回心などと呼ばれた。
【目次】西田哲学からみる科学学問、そして哲学
 〜マインドフルネスSIMTと表裏

参考

★(目次)NHK E テレビ、こころの時代「日本仏 教のあゆみ」
 ある特定の集団の立場に立たないで、根源的な人間のありのままの立場から学問をしようと する例のようです。

★(目次)道元禅師のマインドフルネス
★(目次)人格的自己の「マインドフルネス」へ
★(目次)さまざまなマインドフルネス
★(目次)最も深いマインドフルネスの実践の哲学
★(目次)昔から日本にあったマインドフルネス

★(目次)人格とは何か
★専門家は独断におちいりやすい
 =人格的自己でなくある目的、立場の専門家としての叡智的自己だから

★専門家のエゴイズム
 =自分が世界になろうとする構造
★学問における画一主義を戒めるフランクル
★自覚的直観、創造的直観
★高史明さんと金光さんの対談
★人間存在=自己洞察法の構造
★理論と実践
★理論と実践(2)
Posted by MF総研/大田 at 05:43 | 深いマインドフルネス | この記事のURL