• もっと見る
«(54)無作用的作用形型, 見るものなくして見る | Main | (56)東洋的無心は、芸術と反対»
(55)物となって見、物となって考え、物となって働く [2015年12月10日(Thu)]

西田哲学からみる科学学問、そして哲学
(55)物となって見、物となって考え、物となって働く

 前の記事の西田幾多郎の言葉に「無作用的作用形型は見るものなくして見る」とあった。これは、西田が頻繁にいうことばである。「物となって見、物となって考え、物となって働く」というのが全体である。これが日本人が、理想としてきた生き方であり、人間というものの絶対的真相に関連している。
 西田哲学の後期の論文に次の言葉がある。
     「自然法爾とか無事於心無心於事とかいう東洋的無心とは、自己がなくなるとか非合理的とかいうことではない。物を自己となすというに反して、自己が物の自己となることである。自己が絶対者の物となることである。自己は何処までも自己である。ただそれは絶対の事物となるのである。故に物となって考え、物となって行うという。かかる東洋的無心の立場というのは芸術的直観の立場とは正反対の立場でなければならない。それは世界を内在的に把握する立場ではなくして、逆に世界を何処までも超越的に把握する立場であるのである。自己が物となって消される立場ではなくして自己が物として働く立場、自己が包まれる立場であるのである。自己が絶対現在の瞬間的自己限定となる立場であるのである(故に前の論文に於て行為的直観的に物となるに反して事となるという)。真の道徳の根拠も実は此にあるのである。東洋道徳は此に基くものと思う。・・・
    真の客観的当為は、ここから出て来るのである。自己を唯一絶対の場所において見ることから、即ち主観的自我の絶対否定の立場からである。」(『ポイエシスとプラクシス』旧全集10巻175頁)
 「物となって見、物となって考え、物となって働く」ということは、自己が無、全く小さいもの、絶対の無である。しかし、その時、自己に、絶対者が表現される。自己が絶対者のものとなる。ここに救いがある。そして「真の道徳の根拠も実は此にある」という。別のところに「至誠」があった。無私である。己を尽くすとき、絶対者の働きが現れる。そう信じて生き、そうしているうちに、それを証明すること(回心)が起きるというのである。

 結局、見るところから自分が作ったものではなくて、世界が作ったものを見るところから、絶対者の働きがあって、それによって、自分の目的、価値を作ろうとして自己は行為する。見る時から絶対者の働きに呼びかけられている。その絶対者の働く「絶対現在」は、過去未来が同時存在である。「永遠の今」である。この瞬間は、自己はない、自己は殺されている。自己のエゴイズムも罪も完全に否定される(この底面の働きを「円環的限定」という。ふつうは意識できない。)。しかし、そこで自己も世界も生まれる。自己は世界から作られたものでありながら、世界を作ろうとする意志を起こす(ここは「直線的限定」という)。結局、自覚があろうとなかろうと、すべての人のすべての行為は「無作用的作用形型」である。根底の「円環的限定」は、対象的な作用ではなくて、直線的目的的な意志作用の奥の働きであるから、知る人が少ないのだと西田はいう。

 「意志的自己」と自己の奥底に絶対者を自覚した「人格的自己」との中間に、西田は「叡智的自己」(芸術、道徳、すべての産業領域に働く自己)があるという。叡智的自己から人格的自己は「善の研究」では、連続的なように、記述しているが、後期西田哲学では、連続せず、絶対の断続があるという。自我の努力による道徳からは人格的自己に行けない。犯罪を犯した人でさえも、その後、至誠に生きれば、人格的自己になれるのだから。

 東洋の道徳であるが、日本人は、このような根底の人格的自己(臨済は「人」=にん、といったという)を証明しようとして、実践してきた。そして、「物となって見、物となって考え、物となって働く」のであるから、世界を見、考え、働くのである。世界を創造するのである。瞑想するのではない。瞑想だけしていては、人類は滅亡するからである。食料生産、育児、教育、医療、すべての産業が必要である。これなくしては、人類は滅亡する。 瞑想がなくても、人類は滅亡しない。こういうことになるから、宗教や瞑想、坐禅が重要であることを宗教者は、言葉で説明しなければならない。さもないと、ただ瞑想するだけならば、社会を創造しないのだからエゴイズムの自己満足と似ていて、「寺院の消滅」でもいいと思われてしまう。
    (注)「真の客観的当為は、ここから出て来る」というように、徹底的マインドフルネスが、ここにある。上の引用文では「 絶対現在の瞬間的自己限定」という語があるが、「円環的限定」「永遠の今の自己限定」ともいう。すべての人の根底にこの働きと、この働く根源的場所があり、絶対的一者という。それ自体である基体ではない。必ず至誠、己を尽くした個人の働きで現れる。この立場が、徹底的にエゴイズムのない立場であることになるから、エゴイズムのない社会がいいと日本人(道元、親鸞など)は昔から考えてきた。「マインドフルネス」はここまでいくのがいいとは思う。

     行為的直観、芸術的直観とは違うという。行為的直観は後期の論文では広い意味をもっており、叡智的自己の自己限定作用から絶対無の自己限定作用までも含む使い方をしている論文がある。 そこで最後期の論文群では、「行為的直観」ではなくて、人格的自己の自己限定作用を「自覚的直観」「自覚即ち直観」「創造的直観」と厳密にいうこともある。検討しなければならないことがある。エゴイズムを徹底的に観察して気づき、「物となって見、物となって考え、物となって働く」ことを大乗仏教の昔から提案しているのが「東洋哲学」「東洋道徳」であるという。

     叡智的自己の「マインドフルネスの実践」は「行為的直観」(狭義)とし、「人格的自己」の「マインドフルネスの実践」は「自覚的直観」といってよい。叡智的自己は、自己は絶対的一者の創造的要素であるという自覚はなく、「宗教的」ではないが、その哲学を理解して生きれば、エゴイズム的行動が少なくなる。それを徹底的に生活していけば、自己が無になり絶対的一者の働く瞬間に接触する出来事が起きる。大乗仏教えは自内證といった。 それらは、どのようにマインドフルネス実践すればいいのか、西田が推奨する実践から研究しなければならない。必ずしも瞑想、公案案ではない。浄土真宗、キリスト教の聖書に登場する人にもあるという。西田幾多郎が没して70年だが、まだ開発されていないのではないか。

観照は堕落

 何らかの目的を持って世界創造に参画せず、絶対者の方向を観照するだけの行為(瞑想の一種)は西田は「堕落」だという。自分たちだけは乞食、布施で生きて瞑想するのは、社会創造に目を向けず、絶対者の方向だけを見る行為だからだろう。はやりのマインドフルネスもこの程度のものがある。

 観察、気づき、瞑想は、世界創造のためのそれでなければならないというのが西田の考えであろう。当時の宗教をみていた。家族、職場という社会の現場で観察し気づき、よき家庭、製品サービスを作るための、その制作行為(ポイエシス)のただなかで、エゴイズムの心の観察、抑制の実践(プラクシス)がされる。究極的には、エゴイズム的自己が脱落して「物となって見、物となって考え、物となって働く」。

 西田哲学は、徹底的な在家主義、現場主義であり、自己なくして働く自己となることを提案する。それを真の自己、本当の自分とする。それ以外の自己は、「考えられた自己」であり、真の自己ではないという。意識的自己の利益をはかるエゴイズムの自分である。エゴイズムは集団的エゴイズムがあって、団体(企業、官庁、施設、学問的団体、宗教的団体など)、国、民族の立場の利益をはかることもそれがエゴイズムであることを自覚しなければならない。これが、私の西田哲学の実践の理解である。

 どのようなマインドフルネス実践をすれば、そうなるのか、とにかく言語で示さないと人はわからない。そういえば「不立文字」をかくれみのにして、言葉での説明をしない人(禅に多いか)を烈しく批判した人がいた (秋月龍a)。実践しなければ人格的自己になれないとしても、方向、方法は言語化すべきである。言語化しなければ、布施をくださる檀家信者にも、欧米の人にもわかってもらえない。
    「我々の自己は自己自身に関する関係、即ち目的的作用型であると共に、絶対他者に対する関係として、即ち表現形成的として真の自己であるのである。我々は神の前に真の自己となるのである。無論我々の自己がかかる立場に立つということは、そこに観照的方向へも行くということも含まれているのである。何処までも自己自身に関係する関係としての個物的立場を離れて、ただ第三者によって措定せられた関係という方向に行くことが観照的となることである。矛盾的自己同一的立場を離れて、かかる方向に行くことは自己の堕落である。」(『実践哲学序論』旧全集10巻39-40頁)
 絶対者のほうだけを観照する坐禅を西田は批判した。しかし、臨済、大燈国師、親鸞聖人、道元禅師などの深い根源の自己の哲学は絶賛した。人間の真実を証言しているから。すべての人の根源は、立場、独断、自利、エゴイズムがない。その根源の自己にならって、至誠で見、至誠で考え、至誠で行為することがエゴイズムがなく、すべての人が幸福になるからである。道元禅師がいう「仏道を習うは自己を習うなり」。その自己は根源的な自己である。それが手本、目標である。それを道元禅師も示している。(⇒こちらに) 道元禅師も、すべての人の根底はエゴイズムがないという。 エゴイズムのないのが人間の根源の事実である。その方向で働くのが、世界を利益する。己の利益ではなく。歌手の平原綾香さんも「エゴイズムを見つめ」て歌うといっておられた。

 世界を創造していく要素としての方面を失わずに、根源の絶対無にならって「物となって見、物となって考え、物となって働く」ことができる至誠の生き方を、我々は現代にあった形で開発していかねばならない。現代世界(絶対的一者)が呼びかけているのだから、現代に働く人格的自己でなければならない。西田幾多郎が残した課題である。
 西田哲学は、「世界最高の哲学」という人がいる。ただ、これを現実社会に生かす実践がいまだに開発されていない。
 ここは「宗教的」である。根底の絶対者を記述する。公的施設では、宗教が嫌われている。病院でも、学校でも。どうしてこんなことになったのか。太平洋戦争で、宗教者が戦争に協力したから、そのようなことをしないように憲法で宗教が制限された。宗教者といえどもエゴイズムと対決しなかった。
 やむをえない。マインドフルネスを宗教的なマインドフルネスと宗教でないマインドフルネス(社会的マインドフルネス)を厳密に区分して使っていく。マインドフルネスは宗教ではないという人がいるが、何が根拠だろうか。宗教者のもとに行っている。宗教者からアドバイスを受けている。霧の中を行くと、はじめは濡れないが、長く歩くとびっしょり濡れる。どのマインドフルネスも、宗教への扉と近いところにある。といっても宗教すべてが悪いわけではない。自分のエゴイズムを真剣に観察しているかどうかである。「マインドフルネス」の重要な要素は「気づく」「観察」だというが、エゴイズムをも観察し、気づくことを含めているかどうか。ビジネス、教育、学問、医療、政治、介護、宗教、・・・あらゆる領域に人間のエゴイズムによって、苦しめる人、苦しむ人がいる。トップ、指導者の自分の生きがいとなってはいるが、そのところに閉じ込めて構成員、クライエントの自立を妨害することになっているという支援者のエゴイズムは気づきにくい。エゴイズムには善意と悪意がある。粟野医師の言葉を紹介したことがある。
 西田哲学では、意志的自己、叡智的自己は宗教ではないと断定する。皮肉にも、重要なのは、エゴイズムのない社会創造を提案する西田哲学の人格的自己の生き方は、「宗教的」なので、これを公的施設、学校、病院などでできないのだろうか。そこで、公的施設では、浅いものをするしかないのだろう。深いエゴイズムで苦しめられる人の支援が制限される。日本は、おかしくなっている。
 西田哲学を再評価してほしい。
(語句)
★SIMT:Self Insight Meditation Technology/Therapy。日本的マインドフルネス。大田健次郎 (2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社、大田健次郎(2014)『マインドフル ネス 入門』清流出版。
★学問的マインドフルネス⇒この記事
★社会的マインドフルネス⇒この記事
★世俗的マインドフルネス⇒この記事
★宗教的マインドフルネス⇒この記事
 =それぞれの教団によって、哲学とマインドフルネスの方法が違う

★「人格的自己への原体験」「人格的自己的体験」
「人格的自己の基礎となる直覚的体験」「自覚的直観、創造的直観の基礎となる体験」、仏教 では無生法忍、見性、回心などと呼ばれた。
【目次】西田哲学からみる科学学問、そして哲学
 〜マインドフルネスSIMTと表裏

参考

★(目次)NHK E テレビ、こころの時代「日本仏 教のあゆみ」
 ある特定の集団の立場に立たないで、根源的な人間のありのままの立場から学問をしようと する例のようです。

★(目次)道元禅師のマインドフルネス
★(目次)人格的自己の「マインドフルネス」へ
★(目次)さまざまなマインドフルネス
★(目次)最も深いマインドフルネスの実践の哲学
★(目次)昔から日本にあったマインドフルネス

★(目次)人格とは何か
★専門家は独断におちいりやすい
 =人格的自己でなくある目的、立場の専門家としての叡智的自己だから

★専門家のエゴイズム
 =自分が世界になろうとする構造
★学問における画一主義を戒めるフランクル
★自覚的直観、創造的直観
★高史明さんと金光さんの対談
★人間存在=自己洞察法の構造
★理論と実践
★理論と実践(2)
Posted by MF総研/大田 at 20:43 | 深いマインドフルネス | この記事のURL