• もっと見る
«(40)行為的直観にはポイエシスとプラクシスの位相 | Main | (41)我々が真に生死を賭し得る実践»
(14)坐禅だけだはだめだ、エゴイズムの心理を観察する [2015年11月12日(Thu)]

道元禅師のマインドフルネス

(14)坐禅だけではない、エゴイズムに気づき捨てよ

 西田幾多郎は、道元禅師にしばしば言及します。西田が発見した 東洋哲学を鎌倉時代の禅僧、道元禅師はすでに表現していたのです。
 一つ、道元禅師のプラクシスの言葉を見ておきます。道元禅師は、決して、「ただ坐禅」すればいいというわけではないのです。人はさまざまなエゴイズムの本音を持ち、自分の成長を妨げ、他者が救済されるのを妨害します。
 現代の人も、自分の枠内にとじこめて、すぐれた他の人を紹介しようとはしません。新しい動きを封じ込めようという意識もよくみられます。宮沢賢治が「『どんぐりと山猫』でいった現象が、今も続いています。人はみな、他者を否定して自分が一番となりたがる(=世界を否定し自分が世界になろうとする)構造をもっていると西田哲学はいいます。社会悪、個人悪が避けられず、社会にとっていいものは、なかなかひろがりません。

 次は、道元禅師が坐禅だけではだめだ、エゴイズムの心に気づいて、捨てよ、抑制せよといっている言葉です。無評価でなくなるためです。たくさんあるのですが、「学道用心集」を見ます。
 こういうプラクシスの心得が、重要なのです。他者から明らかに観察できるポイエシスの進行の裏で、同時に、内面の心の浄化が必要なのです。深いものがあり、西田やジョン・カバット・ジン氏が賞賛しています。
 道元禅師は「宗教」ですが、私たちは、西田哲学により論理的に理解して実践する「社会的マインドフルネス」として再構成しようとしています。時代(西田哲学でいう「足場」)が違うので、この現代を足場にして現代らしい実践を研究開発していきます。文字にした哲学ですから、他の研究者が検討できます。うさんくさいものがなくなります。

「学道用心集」に見るエゴイズムに気づくべきという言葉

 実際には、道元禅師にも、現代的マインドフルネスとしての自己洞察瞑想療法(SIMT)に類似する実践があります。自分や他者を傷つける原因系になっているネガティブな心理(SIMTでは「本音」)が、道元禅師から指摘されています。
  • 「龍樹祖師の曰く、ただ世間の生滅無常を観ずる心もまた菩提心と名づくと。然れば乃ち暫くこの心に依りて、菩提心となすべきものか。誠にそれ無常を観ずる時、吾我の心生ぜず、名利の念起らず。時光の太だ速かなることを恐怖す、所以に行道は頭燃を救う。」(1)

  • 「かくの如きの輩未だ菩提心を知らず、猥りに菩提心を謗ず。仏道の中において遠くして遠し。試みに吾我名利の当心を顧みよ、一念三千の性相を融ずるや否や、一念不生の法門を証するや否や。ただ貪名愛利の妄念のみありて、更に菩提道心の取るべきなきをや。古来得道得法の聖人、同塵の方便ありといえども、未だ名利の邪念あらず。法執すらなおなし、況や世執をや。」(2)

  • 「ただ暫く吾我を忘れてひそかに修す、乃ち菩提心の親しきなり。ゆえに六十二見は我をもって本となす。もし我見起るの時は静坐観察せよ。今我が身体内外の所有、何をもってか本とせんや。身体髪膚は父母にうく、赤白の二滴、始終これ空なり、所以に我にあらず。心意識智寿命を繋ぐ、出入の一息、畢竟如何、所以に我にあらず、彼此執るべきなきをや。迷う者はこれを執り、悟る者はこれを離る。しかるに無我の我を計し、不生の生を執し、仏道の行ずべきを行ぜず、世間の断ずべきを断ぜず、実法を厭い妄法を求む、あに錯らざらんや。」(3)

  • 「人の師たる者、人をして本を捨て末を逐わしむるの然らしむるなり。自解未だ立せざる以前、偏えに己我の心を専らにし、みだりに他人をして邪境に堕ちることを招かしむ。哀れむべし、師たる者、未だこの邪惑を知らざれば、弟子何すれぞ是非を覚了せんや。悲しむべし、辺鄙の小邦仏法未だ弘通せず、正師未だ出世せず。もし無上の仏道を学ばんと欲せば、遥かに宋土の知識を訪うべし、迥かに心外の活路を顧みるべし。正師を得ざれば学ばざるにしかず。それ正師とは、年老耆宿を問わず、ただ正法を明らめて正師の印証を得るなり。文字を先とせず、解会を先とせず、格外の力量あり、過節の志気ありて、我見に拘わらず、情識に滞らず、行解相応するこれ乃ち正師なり。」(4)

  • 「ただ宗師に参問するの時、師の説を聞いて己見に同ずること勿れ、もし己見に同ずれば師の法を得ざるなり。参師聞法の時、身心を浄くし、眼耳を静め、ただ師の法を聴受して更に余念を交えざれ。身心如一にして水を器に瀉ぐが如くせよ、もし能くかくの如くならば方に師の法を得ん。今愚魯の輩、あるいは文籍を記し、あるいは先聞を蘊み、もって師の説に同じくす、この時、ただ己見古語のみありて、師の言と未だ契わず。ある一類は、己見を先として経巻を披き、一両語を記持して以て仏法と為す。後に明師宗匠に参じて聞法の時、若し己見に同ぜば是と為し、若し旧意に合はずんば非と為す、邪を捨つるの方を知らず、あに正に帰するの道に登らんや。縦い塵沙劫にもなお迷者たらん、尤も哀れむべし、これを悲しまざらんや。参学して識るべし、仏道は思量分別卜度観想知学慧解の外に在ることを。もしこれ等の際に在らば、生来常にこれ等の中に在りて常にこれ等を翫(もてあそ)ぶ。何が故に今に仏道を覚せざるや。学道は思量分別等の事を用いるべからず、常に思量等を帯び吾が身をもって@(けん)検点せば、ここにおいて明鑑なるものなり。その所入の門は、得法の宗匠のみありてこれを悉(つまびら)かにす。文字法師の及ぶ所にあらざるのみ。」(5)

  • 「初め門に入る時、知識の教えを聞いて教えの如く修行す。この時知るべき事あり。いわゆる法我を転ずると、我法を転ずるとなり。我能く法を転ずる時、我は強く法は弱し。法還って我を転ずる時、法は強く我は弱し。仏法従来この両節あり、正嫡にあらざれば未だ嘗てこれを知らず、衲僧にあらざれば名すらなお聞くこと罕(まれ)なり。もしこの故実を知らずんば、学道未だ弁ぜず、正邪なんぞ分別せん。今参禅学道の人は、自らこの故実を伝授す、所以に誤らざるなり。余門にはなし。仏道を欣求する人、参禅にあらざれば真道を了知すべからず。」(6)

  • 「右、身心を決択するに自ずから両般あり、参師聞法と功夫坐禅となり。聞法は心識を遊化し、坐禅は行証を左右す。ここをもって仏道に入るのは、なお一を捨てても承当すべからず。それ人みな身心あり、作は必ず強弱あり、勇猛と昧劣となり。也は動、也は容。この身心をもって直に仏を証する、これ承当なり。いわゆる従来の身心を廻転せず、ただ他の証に随って去るを直下と名づけ、承当と名づくるなり。ただ他に随い去る、所以に旧見にあらず。ただ承当し去る、所以に新巣にあらざるなり。」(7)

  • 「右、仏法修行は、必ず先達の真訣を稟けて、私の用心を用いざるか。況や仏法は、有心をもっても得べからず、無心をもっても得べからず。ただ操行の心と道と符合せざれば、身心未だ安寧ならざれば、身心安楽ならず。身心安楽ならざれば、道を証するに荊棘生ず。」(8)
 道元禅師の坐禅をする人は、これを理解して坐禅しなければならないわけです。 不要ならば、こういう言葉を残すはずがありません。
 こういう肝心のプラクシスをしないと、長く坐禅してもだめだと道元禅師もいっています。ポイエシスの坐禅だけでは深刻な苦悩は解決できません。やってみればわかります。 深刻な自分の問題の解決の方向がわかりません。我見我執が自分や他者を傷つけます。家族の中、職場、近隣、団体活動、と社会にエゴイズム(我見我執はその一つ)が蔓延しています。竹村牧男氏(東洋大学学長)が仏教から重要なものが失われたと嘆いておられるわけです。「マインドフルネス」も西田哲学や道元禅師などの肝心の羅針盤、プラクシスがないと、従来の仏教の繰り返しです。
 今、マインドフルネスが、仏教の再生の最後のチャンスです。世界中のひとが、「マインドフルネス」の視点から仏教を再検討しています。日本でも心理学の専門家が参入しています。日本の仏教界がこれを活用しなければ、もう日本でも、教団の仏教は消えます。社会に歓迎されないものは、それを維持する意欲を持つ人がいなくなり、消えます。教団も個人の集合だからです。
 坐禅は、「欧米のマインドフルネス」と日本の心理カウンセラーの「マインドフルネス」にとってかわられるでしょう。
 人口が減少していき、墓地の見方も変わりゆく今こそ、再生のチャンスではないのかなと思います。
    (注)
    • (1)「学道用心集」、「道元禅師全集」第5巻、春秋社、1989年、14頁。
    • (2)同上、16頁。
    • (3)同上、16頁。
    • (4)同上、24頁。
    • (5)同上、28頁。@(けん)点の「けん」は、「検」の字のつくりで手偏。
    • (6)同上、32頁。
    • (7)同上、36頁。
    • (8)同上、20頁。



★(目次)道元禅師のマインドフルネス

(語句)
★SIMT:Self Insight Meditation Technology/Therapy。日本的マインドフルネス。大田健次郎 (2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社、大田健次郎(2014)『マインドフル ネス 入門』清流出版。
★学問的マインドフルネス⇒この記事
★社会的マインドフルネス⇒この記事
★世俗的マインドフルネス⇒この記事
★宗教的マインドフルネス⇒この記事
 =それぞれの教団によって、哲学とマインドフルネスの方法が違う

★「人格的自己への原体験」「人格的自己的体験」
「人格的自己の基礎となる直覚的体験」「自覚的直観、創造的直観の基礎となる体験」、仏教 では無生法忍、見性、回心などと呼ばれた。
【目次】西田哲学からみる科学学問、そして哲学
 〜マインドフルネスSIMTと表裏


参考

★(目次)NHK E テレビ、こころの時代「日本仏 教のあゆみ」
 (東洋大学学長:竹村牧男氏)
 ある特定の集団の立場に立たないで、根源的な人間のありのままの立場から学問をしようと する例のようです。

★(目次)道元禅師のマインドフルネス
★(目次)人格的自己の「マインドフルネス」へ
★(目次)さまざまなマインドフルネス
★(目次)最も深いマインドフルネスの実践の哲学
★(目次)昔から日本にあったマインドフルネス

★(目次)人格とは何か
★専門家は独断におちいりやすい
 =人格的自己でなくある目的、立場の専門家としての叡智的自己だから

★自覚的直観、創造的直観
★高史明さんと金光さんの対談
★人間存在=自己洞察法の構造


Posted by MF総研/大田 at 19:34 | 深いマインドフルネス | この記事のURL