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(31)人格的自己の基礎となる直覚的体験 [2015年10月11日(Sun)]
★北陸マインドフルネスセンター
「マインドフルネス瞑想療法士」の人が増えています。 石川県金沢を拠点にした「北陸マインドフルネスセンター」が活動を開始されました。
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 マインドフルネスの自己洞察瞑想療法(SIMT)の理論的背景になっている西田哲学を生み出した世界的哲学者、西田幾多郎博士の故郷が石川県です。SIMTのメッカです。北陸のかた、どうぞ、マインドフルネスの普及の運動にご参加ください。西田哲学は、哲学的になぜマインドフルネスなのかを説明していますから、今後、西田哲学が世界をリードするマインドフルネスの理論になる可能性があります。日本全国の、そして、外国からもマインドフルネスの推進者が石川県を訪問する時がくる可能性があります。北陸マインドフルネスセンターの一員になったり、協同で活動なさってください。こういうことをしてほしいと、センターに希望を提案なさってもいいのではないでしょうか。

★メンタルオフィスSINBI
(東京都) 摂食障害を克服するためのマインドフルネスを開始されました。

★ほかにもオープンでマインドフルネス心理療法を受けらるところ

西田哲学からみる科学学問、そして哲学
 〜マインドフルネスSIMTと表裏

(31)人格的自己の基礎となる直覚的体験

 浅い作用は、判断作用、知的作用(見る、聞く、思惟)、意志作用を含む種々なる意識作用である。ここまでは、作用そのものを志向によって映し意識することができる。 我々がこの世界に生まれ生きていく時の働き(ノエシス)は、これだけではない。 作用(ノエシス)そのものを意識できないが、作用が表現したもの(ノエマ) の性質を検討することによって、西田幾多郎は「行為的直観」とか「自覚的直観」を明らかにした。行為的直観は、自覚的直観までを含めて言う場合もある(広義の行為的直観)が、混乱しやすいので、叡智的自己の自己形成作用を「行為的直観」とよぶことにする。人は、行為的直観によって、それぞれの自分の職務を遂行して、社会(世界)を作っていく。

 しかし、叡智的自己の行為的直観は、西田哲学の最終的立場ではない。これは、ある立場、ある目的からの行為である。独断が入る。他の領域のことは行動しない。知らない。叡智的自己は、 世界の立場ではない。西田哲学の最後の立場は、立場に立たない立場であり、「絶対的論理主義」(旧10巻510頁)、「絶対弁証法的」(旧全集11巻459頁))という。その時の、我々の自己の働きは、自覚的直観、創造的直観である。次で述べた。  ほとんどすべての専門家は、叡智的自己であり(哲学を学習していないので本人は自覚がないが)、行為的直観(叡智的直観)的に見て行動している。 しかし、どんなにすぐれた専門家でも、そのままでは自覚的直観にはならない。自覚的直観で生きるためには、直覚的体験を通過する。西田は、これを「回心」とか「見性」「宗教的体験」という。みな、宗教用語である。
 宗教ではない日本的マインドフルネス、社会的マインドフルネスを研究開発しているが、 宗教用語を用いると、「宗教か?」と思われるので、新しい用語を用いたい。意志的自己レベルの日本的マインドフルネスである「自己洞察瞑想療法/自己洞察法(SIMT:Self Insight Meditation Technology/Therapy)でも、徹底的に宗教用語を使わず、一般的用語、西田哲学の用語を用いた。なければ造語した。 回心、見性にあたる言葉も造語したい。
 自己形成的には至誠の実践により外的社会的には社会のために行為的直観的に働くうちに、ある体験に遭遇する。意図しては体験できない。至誠に生きる者への絶対者からの恩寵というごときものである。向かおう、悟ろうとすると、それは対象的意識であるから、この体験には至らない。30年坐禅しても悟らないということがある。また、マインドフルネスも、そのつもりでしないと30年やっても、この体験は起らない。西田によれば「至誠」の実践をしながら、感情の渦巻く現実社会で働くことが必須である。中国禅僧や道元禅師が注意している。

真の自己探求は無用というのはエゴイズム

 昔の宗教と似た立場ならば、「私には無用だ」と思うだろうか。しかし、西田によれば、真の自己であるといい、科学や道徳もこの立場によるべきだという。また、自己存在そのものによる社会問題や苦しむ人も多い。死の不安、低い自己評価の苦しみなど「生命に関する苦悩」で、述べた。悪質なカルトに勧誘されて一層苦しむ人もいるだろう。これらを放置してよいというのは、やはり自分さえ満足しているからいいというエゴイズム、独断となるだろう。 いくつかの難病やがんがある。自分の家族はかかっていないから、そういう病気の治療法の研究開発は無用であるというのは自分のことしか考えないエゴイズムである。 特に、科学者、医療関係者と宗教者には、そう思っていただきたくない。

 このような真の自己の自覚には共通の「至誠」の実践が必要とされる。至誠の実践は禅の人にも、真宗の人にも、キリスト教の人にも、無信仰の人(芸術家、至誠の医療福祉関係者など)にもされうるが、見性、西田哲学を理解してしないと、偶然に、この体験に遭遇しても、見落としてしまい忘れさられて何の変化もないか、怖い体験をしたと錯覚してしまう(井筒俊彦が記述している)。 深いマインドフルネスへの、この綾が難しい。間違いやすい。指導者の指導が重要となる。禅では微妙な注意がされた。
 最も深い、二元観でない人格的自己の基礎になる体験に、宗教語を用いないで名前をつけるとして、 西田哲学の語を用いるならば「人格的自己の基礎となる直覚的体験」となる。「自覚的直観、創造的直観の基礎となる体験」となる。短くいえば「人格的自己への原体験」「人格的自己的体験」であろうか。その真最中は、自分も絶対者もない、時間もない、 主客未分、井筒俊彦が「無分節」といったものを体験することである。そこには長くとどまることはできず、すぐ現実に戻る。しかし、自分や世界の見方が一変する。人格的自己の自覚が生まれて、働きは創造的直観となる。

(西田哲学の実用化としての、現代人のための深い日本的マインドフルネスの完成は、次世代の人に託したい。私は、粗いスケッチだけしかできない。まだ誰もてがけていないので、難しいのです。方向づけと、粗い方法を描くので寿命が尽きるだろう。あとは、現在の心の問題を解決するためには、今のままの仏教、哲学、心理療法、マインドフルネスでは不足であると思うみなさんが引き継いでくださることを期待する。)
(語句)
★SIMT:Self Insight Meditation Technology/Therapy。日本的マインドフルネス。大田健次郎 (2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社、大田健次郎(2014)『マインドフルネス 入門』清流出版。
★学問的マインドフルネス⇒この記事
★社会的マインドフルネス⇒この記事
★世俗的マインドフルネス⇒この記事
★宗教的マインドフルネス⇒この記事
 =それぞれの教団によって、哲学とマインドフルネスの方法が違う


【目次】西田哲学からみる科学学問、そして哲学
 〜マインドフルネスSIMTと表裏


参考

★(目次)NHK E テレビ、こころの時代「日本仏教のあゆみ」
 ある特定の集団の立場に立たないで、根源的な人間のありのままの立場から学問をしようとする例のようです。

★(目次)道元禅師のマインドフルネス
★(目次)人格的自己の「マインドフルネス」へ
★(目次)さまざまなマインドフルネス
★(目次)最も深いマインドフルネスの実践の哲学
★(目次)昔から日本にあったマインドフルネス

★(目次)人格とは何か
★専門家は独断におちいりやすい
 =人格的自己でなくある目的、立場の専門家としての叡智的自己だから

★自覚的直観、創造的直観
Posted by MF総研/大田 at 06:49 | 深いマインドフルネス | この記事のURL