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(21)今生きている現実の世界を足場に=現代的社会的創造的マインドフルネス [2015年09月15日(Tue)]
☆10月3日、マインドフルネス精神療法研究会(D1)
 マインドフルネス瞑想療法士の講座を受けた人のスキル向上の研究会。
★「マインドフルネス瞑想療法士」の資格へ移行
 以前に、マインドフルネス総合研究所で、SIMTの講座を受けた人は、追加講座を受けると、「マインドフルネス瞑想療法士」(登録商票)の資格を認定されます。ご希望のかたは、研究所のメールにご連絡ください。
(本年中受付け、移行プログラムを本年から来年に実施します。特別の措置は、これ限りです)
早稲田大学で講座
★10月6日に、早稲大学で企画するマインドフルネスの連続講座に一コマ、大田が講義します。
⇒このような内容にしたい。<ブログ>に書いていないことを語りたい。

西田哲学からみる科学学問、そして哲学(21)
 〜マインドフルネスSIMTと表裏

(21)現代的社会的創造的マインドフルネス

 時代、環境、政治構造、職業、思想、科学文化、身分差別の撤廃、人格の平等、個人の独立意識、発言の自由、あらゆることが変わってしまった。それは習慣的に学習されて深層意識に動いている。現代に生きる我々は、大昔の 身分差別があり、人格的平等などなかった時代、僧院の中で、一人の住職にしたがって、悟りだけを求めて行われた坐禅があった。しかし、環境が激変し、従う権威者がいない現代では違うものを開発して、現代の現実の社会を創っていく実践をしなければならない。静かな場所で瞑想していい気持ちになって終わりではない。違う人生価値を求めていきる家族、職場の人間の中で生きながら、感情的になることが自由な社会で、 その中で社会を創っていかねばならない。 西田哲学は、時代、環境に適応していく実践法を示唆している。それが、現代的社会的創造的マインドフルネスといえるだろう。

 マインドフルネスはどの程度のものであるのか。もし、家庭や職場がストレスが強い場なので、静かな環境で、リフレッシュの体験をしたり、神秘的な体験をしたりして、また現場に戻る清涼剤のようなものだろうか。西田幾多郎からは、こんなことが言われかねない。
    「宗教といえば、此の日常経験の立場を離れて、神秘的直観の如きものと考えられるかも知らぬが、かかる宗教は無用の長物たるに過ぎない。宗教とは我々の日常生活の根底たる事実でなければならない。」(「実践哲学序論」、旧全集10巻120頁)
 日常生活のところにもある自己の根底の事実。多くの人が自己の根底を知らない。家庭や職場での日常生活は、つらい出来事が多く感情が暴走する生活は砂上の楼閣のように思えるかもしれないが、その日常生活の根底に気づかれていない事実、ゆらぐことのない土台があるのだ。絶対に対象にならない真の自己。人格の基礎になるもの。西田はそれをいう。そういうことを教えない「宗教」は「無用」と言う。西田は、禅を書いたのではない。存在した特定の「宗教」を記述したのではない。すべての人間に共通の根底を明らかにした。すべての人の根底が、意識的自己がなく絶対を持つので「宗教的」という。宗教が日常を離れた特殊な体験ならば、「無用」と西田はいった。

今生きている現実の世界を足場に

 自己は、環境が違ってしまった現在の世界の中に生きていて、そこから情報、もの、サービスを得て生きていくのだ。だから、自己も現代の世界の中で働き、世界を創造する必要がある。
    「真理は歴史的地盤を離れた永遠の真理ではなく、歴史的形成の原理、創造の原理でなければならない。」(「実践哲学序論」、旧全集10巻63頁)
 一人の住職の指示で割合静かな寺院の中で解脱、悟りを求めて生きた、そんな環境には生きていない。中世の古い環境世界に生きているのではない。 現代の複雑な多様な価値観を持つ家族、職場、近隣の人の暮らす「歴史的地盤」の社会で、その社会を造っていくことを要求されている、そういう中で生きる原理でなければならない。自由を与えられて、それぞれが唯一の人生を歩んでいるが、その生きる現実の場、その現実の社会(歴史的現実)が足場(歴史的足場)であり、それを足場にして、足場たる世界を創造する活動に参画しなければならない。
    「歴史的世界に於て我々の実践とか行為とか云うものは、 ただ社会と個人との相互関係だけから考えられるのではない。社会と個人の相互関係と云うものが、歴史的地盤に於て考えられるものでなければならない。」(64-65)
 現代の社会環境から得て、社会環境を作っていく。現代の環境を足場にする。現実は、個人個人が違う。個人と自分が生きる社会との相互関係が、自分に特有のものになっている。それが地盤になっている。
 自分に自由があるのだから、主体的にその環境を作る。他者もそうしている。そうして自分と他者が作った環境を足場にして、また、環境を作っていく。自分は創造的世界の創造的要素である。
    「主体的に形成せられた環境を足場として、主体を形成し行く。そしてそこに又主体的に 歴史的・社会的形成作用として世界を形成して行くのである。矛盾的自己同一的世界そのものに於ては、主体即環境、環境即主体である。主体と環境との矛盾的自己同一的な 歴史的局面に於て、我々の自己は創造的世界の創造的要素と云うことができる。・・・」(75頁)
 社会に、物、サービスを作っていくことを「ポイエシス」という。自分一人一人が世界に物、サービスを作っていく。ポイエシスの世界である。
    「我々のポイエシスと云うものは、歴史的地盤からでなければならない。之を離れてポイエシスと云うものは考えられない。」(104頁)

    「中世の如き超越的立場に還ることでないことは、既に論じた所によって明らかであろう。」(123頁)
 こういうわけで、現代(現代である。古代印度でも中世中国でもなく江戸時代の日本でもない)の社会に生きて、現代社会を創っていかねばならない、そういう現場の自己に直接、関わるものでなければならない。
 西田哲学でいうのは、宗教ではなくて、人間の根源の事実である。真理である。対象的論理でなく、絶対に対象にならないものが根底にある事実、それを論理的に記述する。エクハルトやV・E・フランクルもいうが論理的に説明がないだけである。西田は、大乗仏教にも、中国禅にも公案禅にも、公案を用いない道元禅にも、そして親鸞聖人にも、人間の根底の核心があることを認めている。とすれば、各派もギャップを埋める作業をすればいいのだと思う。現在の社会が呼びかけていると思う。

この詳細は
マインドフルネス精神療法研究会(D1)
で学習しながら、それを実践、体得していきます。 この記事 で触れた、絶対者、円環的限定、永遠の今、人格など、西田哲学の用語を学習して、体得への実践をしていきます。
 マインドフルネスSIMT
    自己洞察瞑想療法、「シムト」と略称。Self Insight Meditation Technology/Therapy
 「シムト」は、現実の「宗教」と、「宗教的」とを区別し、宗教でないことと宗教的の境目をよく理解して実践して、個人の成長と悩みの解決が、同時に、よりよい社会の創造になるような西田哲学を背景に探求していきます。
 マインドフルネスが宗教と混同していると、別の宗教を持つひと、もたない人が共存しているビジネス職場、近隣、官庁、教育の場、医療福祉などの場で拒否されたり、葛藤を起こすひとがいるかもしれないからです。
 意志的自己レベルのSIMT(*1)は、全く宗教でも宗教的でもありません。
 叡智的自己レベルのSIMT(*2)も宗教的でありません。ここは、西田哲学やロゴセラピーのV・E・フランクルが語っています。
 人格的自己レベルのSIMT(*3)は、「宗教的」ですが、宗教ではありません。西田哲学による実践です。
    (*1)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』(佼成出版社)
    (*2)『マインドフルネス入門』(清流出版)がその入門。そのうち、本格的な叡智的自己レベルのSIMTを書きたい。
    (*3)まだ、出版していません。2,3年かけて書きたい。


 宗教と宗教的と、そうでない、マインドフルネスの区別は、マインドフルネス瞑想療法士の育成講座で学習します。(⇒マインドフルネス瞑想療法士の育成講座)

【目次】西田哲学からみる科学学問、そして哲学
 〜マインドフルネスSIMTと表裏

Posted by MF総研/大田 at 07:07 | 深いマインドフルネス | この記事のURL