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(1)西田哲学からみる科学学問、そして哲学(1) 5回目「禅ー自己を求めて」(2) [2015年08月18日(Tue)]

西田哲学からみる科学学問、そして哲学(1)
 〜マインドフルネスSIMTと表裏

 8月16日の、NHK Eテレビの竹村牧男先生の5回目の放送は、禅でした。マインドフルネスSIMTや西田哲学と 、かなり関連があります。テレビの内容から離れて、西田哲学が提案する科学者の態度についてみておきます。

科学はある立場に立つ

 その前に科学・学問とはどういものであるのか西田哲学の視点からみておきます。竹村先生は、宗教者ではなく、科学の立場でお話しなされました。マインドフルネスSIMTもできるだけ、科学的態度でありたいと思います。 禅、仏教は科学の立場から見ると、どうなるかを、竹村先生の「立場」から見られたわけです。宗教者とは違う立場が見られます。

 自己存在とは何かという真理を探求するのは、仏教や禅など宗教と科学(学問)があります。ある立場ではなくすべての立場を包む場所を実践体験するのが宗教であり、ある一つの立場を限定して言語で説明す るのが科学です。西田幾多郎は、こう言っています。
     「科学者はある立場を限定することによって、科学者となるのである。」(『行為的直観の立場』(旧全集8巻216頁 )

     「真理というのはある時代からその否定的方向に見られた原始構造に過ぎない、一の極から見られた世界であ る。無論、原始構造というものはどこまでも知られるものではない、ただ、知識は どこまでもそれを対象とするというのである。知識といっても、いわゆる科学というものは、必ずしも世界の原始構造 そのものを対象とするものではない。」(209頁)
 難しい述語「原始構造」が出てきます。井筒俊彦がいう「無分節」のことでしょう。 (絶対に対象的につかめない自己の根底・無分節
 次の説明があるからです。「過去未来がそこに同時存在的である、原始構造 的である」といいます。直線的時間の底に、時が消える、永遠の今、絶対現在のありさま。
     「歴史的現在の自己限定としてイデヤが見られる、我々が行為的直観的にイデヤを見るというのは、種々なる立 場に於て見られるのである。・・・・・ 弁証法的世界はいつも歴史的現在として自己自身を限定する、過去未来がそこに同時存在的である、原始構造 的である。いはば、その限定せられた平面的現在に於いて芸術的イデヤが見られる。しかし歴史的現在は原始 構造の一の極として、自己自身を限定する現在として、その否定と肯定との両方向に無限の陰影をもったもので ある。否定的現在として知的イデヤが見られ、肯定的現在として道徳的イデヤが見られるのである。」(209-210頁 )
 科学学問の知識はある偏った立場だといいます。V・E・フランクルも、学問における偏見を指摘しました。どこか に書いたと思います。あとでリンクします。(下記注)
 禅を科学・学問で説明する時に、それぞれの学者が「ある立場」に立つのです。竹村先生は、このシリーズで「日本仏教にはすべて自己の根底に自己を超えたものがある」それを明らかにしたいという立場のようです。毎回、根源的なものを掘り出しておられたように思えます。
 そんなものはない、という立場に立つ科学者もいます。その場合には、他のものを重視します。 学問の見方は、ある立場から見た、知的イデヤになるわけです。絶対的真理ではないことを自覚している必要が あります。竹村先生は、自己の根底には対象的にならないもの、自己の底に自己を超えたものがあるという立場にたって、学問的に明らかにする立場なのだろうと思います。古来そういうものを求めたのが日本人であり、仏、仏性、 無、父母未生以前の本来の面目が宗教で言われて、学問的(特に禅学、哲学)には絶対無、絶対的一者、東洋的無、日本的霊性、無分節などと言われたようで す。

文献:
竹村牧男、2015a『日本仏教のあゆみ』NHK出版
竹村牧男、2015b『日本仏教思想のあゆみ』講談社学術文庫


(注)
V・E・フランクルの教育論
この中の教育論(1)-(4)です。全体主義、画一主義、還元主義。学問の名で、これが行われている。聞く一般人は、真実だと思いこまされる。竹村先生は、このテレビ放送と文献により、全体主義、画一主義、還元主義になった学問が見落としてしまった重要なところを掘り起こしていこうとされておられるのだと思います。仏教、禅の学問は、まだまだ変化します。時代の産物です。時代によって変わります。昭和20年にも、学問が一変しました。
★<目次>西田哲学からみる科学学問、そして哲学
 〜マインドフルネスSIMTと表裏

 =科学、学問、哲学は、絶対無の立場に立つべきことを自覚しておくべきである。科学はある立場に立つことが多い。哲学は絶対無の立場でないものもある。

★<目次>NHKこころの時代「日本仏教のあゆみ」


学問的マインドフルネス
 =文献だけあるマインドフルネス
(参考)宗教的マインドフルネスと社会的マインドフルネス

★<目次>道元禅師のマインドフルネス
 =「宗教的マインドフルネス」ということになります。仏教の核心の「正覚」はあるのに、「仏道」という単一の価値 追求の出家(妻帯しない、生活のための職業を持たない)中心の傾向の思想があり、家庭や職場を持つ人にはと ても難しい宗教観。そのままでは、実践する人が少なくなっている。
深い哲学と至誠に類似する実践がある、これを「社会的マインドフルネス」にすることが、日本人の責務。
Posted by MF総研/大田 at 06:36 | 深いマインドフルネス | この記事のURL