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NHKEテレビ「日本仏教のあゆみ」5回目 [2015年08月16日(Sun)]
★8月30日に、宮城県石巻市で、うつ病、PTSDなどを改善できるマインドフルネス心理療法、SIMTの説明会を開催します。決定です。マスコミの取材があるそうです。


★9月5日(土)マインドフルネスSIMT研究会(A1)

☆9月12日(土)マインドフルネス瞑想療法士認定講座第4回

★10月3日(土) マインドフルネス精神療法研究会(D1)
早稲田大学で講座
★10月6日に、早稲大学で企画するマインドフルネスの連続講座に一コマ、大田が講義します。

NHKEテレビ「日本仏教のあゆみ」
5回目「禅ー自己を求めて」(1)

 けさ16日は、竹村牧男先生のテレビ5回目でした。マインドフルネスSIMTや西田哲学と、かなり関連がある、禅のご説明でした。曹洞宗と臨済宗がありますが、基本は同じだということでした。禅の核心は「己事究明」、自己の究明だそうです。 真の自己とは、身心脱落して知る人格的自己です。対象にならないものです。 悟ろうというはからいは、対象的な努力ですので、かえって、悟れないということです。自己を捨てる方向のくふうが必要です。わかりにくいから、何十年坐禅しても悟ることができず、「悟りはない」という誤解がかなり広くあります。

 道元禅師は、竹に石があたった時、桃の花を見た時に、悟った二人の禅僧の話をよくしていると、竹村先生が、真の自己を悟る体験を話されました。 坐禅の時は、坐禅している自分がありますので、対象的自己です。絶対に対象とならない真の自己ではありません。花を見たり、音を聞いた時に悟ると道元禅師がいう。見たり、聞いたりは、対象的な感覚ですが、長い間の自己を捨てる修行の結果、自己のない状況におのずからはいっていたのです。時がない、自己がない(=自己が死んでいた)、世界がない(=世界創造の前)、善悪がない(=自分の罪も消えている)、悩みがない。桃の花を見た、石が竹にカチーンと聞いた途端に、すべての対象的なものが現れて、自己や他者の根源と真の自己を悟ったのです。
 西田哲学で言うと、絶対に対象的でない根源的なものを体験するわけです。 そこから現れる無我の我を自己とする人格的自己です。 自分もすべての人もそれがあるとして、他者にも絶対無的な根底があったことを認めて、道元禅師は他者を「他己」といいます。他者であるが、自己と別ではない、自他不二。
 曹洞宗も臨済宗も同じです。竹村先生がそうお話になりました。西田幾多郎もそういっています。親鸞上人もキリスト教も同じ根底をいうとも。 しかし、自己を捨てない瞑想では、何十年しても、そういうことにはならないのです。道元禅師は、そこを厳しく戒めています。

 竹村先生のお話は、宗教レベルのマインドフルネスです。 通常のマインドフルネスは、感覚や身体の動きを観察する浅い対象的マインドフルネスですから、自己存在そのものには疑問をもちません。対象とならない自己存在探求のマインドフルネスではありません。竹村先生の説明なさった禅は、対象とはならない自己の探求です。意識される自己(たとえば、低いという自己評価の場合対象的に意識された自己)は真の自己ではないと疑います。真の自己を求めます。
 自己洞察瞑想療法(SIMT)では、宗教ではないレベルと宗教的レベルとを明確に区別していきます。前者は、ほぼ誰でも1,2年でマスターできます。対象的ですから、言葉でも理解でき、実践法もわかりやすい。しかし、宗教レベル、人格的自己レベルは、対象的でなく、言葉のない世界ですので、わかりにくい。知性に頼り自己を尽くす、捨てることができない人も多い。誰でもできるわけではない。

 先日、訪れた能登の永光寺は、道元禅師から3代の螢山禅師の開創のお寺でした。誰もこないひっそりとしたお寺で坐禅。涙があふれました。この寺がなければ、私はない、死んでいたかもしれなかった。宗教的レベルのマインドフルネスは絶望の人を救済するのです。

文献:
竹村牧男、2015a『日本仏教のあゆみ』NHK出版
竹村牧男、2015b『日本仏教思想のあゆみ』講談社学術文庫

★NHKこころの時代「日本仏教のあゆみ」 参考
    <目次>道元禅師のマインドフルネス
     =「宗教的マインドフルネス」ということになります。仏教の核心の「正覚」はあるのに、「仏道」という単一の価値追求の出家(妻帯しない、生活のための職業を持たない)中心の傾向の思想があり、家庭や職場を持つ人にはとても難しい宗教観。そのままでは、実践する人が少なくなっている。
    深い哲学と至誠に類似する実践がある、これを「社会的マインドフルネス」にすることが、日本人の責務。



Posted by MF総研/大田 at 13:09 | 深いマインドフルネス | この記事のURL