禅と西田哲学ゆかりの地の旅(3)
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3 [2015年08月05日(Wed)]
禅と西田哲学ゆかりの地の旅(3)
=日本的マインドフルネスの源流をたずねる意味も
フランクルと西田哲学の類似性
禅と西田哲学ゆかりの地の旅(1)
の最後に、
「西田、久松、西谷もまだ生きている、過去が現在にある。V・E・フランクルに通じますね。」
と述べました。
石川県の旅に出ていたので、帰ってから、録画していたのを見たのですが、
先日の日曜日、NHK Eテレビの「こころの時代」で、
哲学者の山田邦男さんが、V・E・フランクルについて語られました。
山田さんも、フランクルと西田幾多郎との類似性を指摘されました。
私も、そう思います。
山田さんは、放送の中で、「精神的無意識」を深くとりあげておられました。
フランクルの「無意識」には、いくつかあるようです。
西田幾多郎とフランクルが類似しそうですが、最も関心があるのは、
フランクルの無意識に、西田哲学でいう「絶対無」があるのかどうかでしょう。
V・E・フランクルの深い哲学については、私も次で考えました。
以上は、行為中の自己意識のないことであり、絶対無ではなさそうです。
しかし、次は、絶対無かもしれません。
もっと明確に、絶対無と同じといえる箇所がないのでしょうか。
宗教的無意識
時間がないので、フランクルの著作に全部目を通すことができませんが、
ちょっと、気づいたのが次の文章です。
「真の深層人格、すなわちその深みにおける精神的・実存的なものは、何時いかなる場合にも無意識的なので
ある。したがって深層人格は単に無意識的であり得るのではなく、不可避的に無意識的なのだ。このことは、精神
的な行為の実現、とりもなおさず精神的な行為の中心としての人格の本質が、本来的に純粋な『実現の生きた現
実』であるということに基づいている。換言するならば、人格はみずからの精神作用の実現のなかで完全に忘我
の状態になってしまうから、みずからをその真の存在において反省することはまったく不可能であり、反省において
輝き出ることがまるでできないのである。」
(『識られざる神』p26)
「何時いかなる場合にも無意識的」「不可避的に無意識的」「完全に忘我の状態になってしまう」「みずからをそ
の真の存在において反省することはまったく不可能」・・・。
こういう特徴を持つ「無意識」を、フランクルがいうのであるが、これは、
西田哲学でいう、絶対無に類似する。西田幾多郎は、我々の真の自己は、絶対に対象にならないもの
、絶対無の場所とした(ただし、それ自体では存在しない)。直線的に考えられる時間も消える、対象的自己意識
も消える(これをフランクルもいうのだろう)。我々の根底で、一瞬一瞬の絶対現在に、過去・現在・未来が引き寄
せられる「円環的限定」が起きているという。
直線的な時間が消えるという。時間も消え、対象的自己も消える。フランクルの上記の無意識は、これをいうので
はないだろうか。自己が消える=自己の絶対の無(行為的無自己意識ではない)なので、「宗教的な無自己意識
」である。西田哲学の場合、対象的自己は絶対に無であるという自覚から、しかし自己も世界も生みだすものを根
底に持ち、世界が自分であるという新しい人格的自己に蘇るという。西田哲学の場合、根底は無我であるが、自
己の「自覚」はある。対象的自己はなく、世界が自己であるという「自覚」が。そのように解釈できる。
西田幾多郎とフランクルは、類似するが、西田哲学は絶対無を詳しく
説明している。フランクルを理解する時に、西田哲学が参考になるのだろう。
(参考)
★V・E・フランクル・生きる意味
★道元禅師のマインドフルネス
西田幾多郎は、道元禅師に絶対無があると見ている。
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Posted by
MF総研/大田
at 11:51
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深いマインドフルネス
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