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NHKEテレビ「日本仏教のあゆみ」4回目 [2015年07月24日(Fri)]

NHKEテレビ「日本仏教のあゆみ」
4回目 浄土への憧れ(1)

 19日は、竹村牧男先生のテレビ、4回目でした。 3回目の密教にも、深い見方を示してくださいましたが、もう4回目になりました。
 時間をゆっくりとれませんので、4回目も、2,3簡単に。
 浄土教の親鸞聖人の教えも大変深いものがあると教えていただきました。 一遍上人もです。お二人とも念仏です。絶対他力といわれました。 実は、禅も西田幾多郎も本当は他力です。

 「人間より神へ行く道はない」(正確でないかもしれません)という言葉が西田幾多郎にあります。自力は、人間のはからいを用いる、対象的行為です。意志的自己の行為です。どこまでも、二元的です。 絶対に対象にならない絶対的一者に撞着する(ぶちあたる)ことはできません。禅も真意は他力です、自我を捨てることです。道元禅師が「我見我執を捨てよ」と繰り返し説いています。悟り(対象にならない自己根源を知る)がないわけではない、我見我執を残して坐禅(=マインドフルネスの実践)をしていると、真の自己を悟れないというのです。課題は、家族、職場の中で、我見我執を捨てる実践をすることです。

 西田は「己を尽くす」といいます。自力を捨てて、捨てきったときに、絶対的一者から来るのです。 禅もマインドフルネスの無評価も、自力でやっていては、悟る時は来ないのです。

 「己を捨てる」のは、西田は「至誠」といいました。 竹村先生の説明の中に、一遍上人の絶対他力の条件の中に、念仏だけではなく、「三心」があるというお話がありました。 その中の一つが「至誠心」(しじょう)がありました。至誠とは、「自力我執の心を捨て」ることだそうです。無評価です。しかも、徹底的です。 西田幾多郎の「至誠」と通じます。人間の智慧の無評価ではありません。

 西田幾多郎の「至誠」は、次で述べていました。竹村先生の講座とは無関係に西田哲学の原文を読んだ時に、見つけていたので、ホームページにも掲載していました。  「至誠」ならば、親鸞聖人、一遍上人にもありますよ、と竹村先生が教えてくださったのですね。念仏も容易ではないのですね。徹底的無評価の念仏でなければなりません。東洋道徳の(特に日本の)根本が「至誠」なのですね。鎌倉時代からです。松尾芭蕉も至誠の人だったそうです。陶芸の河井寛次郎もそうだったそうです。西田幾多郎も。

 ここから、はやりの「マインドフルネス」の深いものが感じられます。日本の絶対的無評価のマインドフルネスです。 対象的な努力によるマインドフルネスではありません。浅い無評価ではありませんから、難しいのです。エゴイズムの心を探求する、そのような程度の無評価でありません。
 学問、科学もある立場に立って、評価を用いているのです。その立場で評価しています。
 道元禅師も絶対的無評価です。日本には、意志的自己の無評価(=マインドフルネス)とその先の、さらに深いマインドフルネス、無評価があります。死が常にそばにあった鎌倉時代の人々も救われたのです。これらは、宗教ですから、説明が難しいですが、西田哲学は、西洋哲学のように論理的に説明しようとしたのです。日本的マインドフルネスは浅いものから浅い深いを越えたものまで、至誠、己を尽くす、我見我執を捨てることでしょう。そのようなことを生活の中で、実践するうちに、向こうから来るのです。もともと絶対無の場にいたこと、評価以前の絶対無分節の自己の根底を見る体験が向かうから来るのです。こちらかは行けない。行こうとしてはいけない、やめてはいけない、矛盾です。

文献:
竹村牧男、2015a『日本仏教のあゆみ』NHK出版
竹村牧男、2015b『日本仏教思想のあゆみ』講談社学術文庫


★NHKこころの時代「日本仏教のあゆみ」 参考
    <目次>道元禅師のマインドフルネス
     =「宗教的マインドフルネス」ということになります。仏教の核心の「正覚」はあるのに、「仏道」という単一の価値追求の出家(妻帯しない、生活のための職業を持たない)中心の傾向の思想があり、家庭や職場を持つ人にはとても難しい宗教観。そのままでは、実践する人が少なくなっている。
    深い哲学と至誠に類似する実践がある、これを「社会的マインドフルネス」にすることが、日本人の責務。


Posted by MF総研/大田 at 14:11 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL