(13)西田哲学もマインドフルネスMBSRも深い自己洞察の指針 [2015年07月15日(Wed)]
最も深いマインドフルネスの実践の哲学
(13)
西田哲学もマインドフルネスMBSRも深い自己洞察の指針
禅が専門家から誤解されているのですが、西田哲学も誤解されているようです。藤田正勝氏がそれを指摘しています。
「西田哲学は東洋の思想(あるいは禅の思想)を西洋哲学の概念を用いて表現し直したものだと言われることがあるが、それは決して正鵠(せいこく)を射た理解ではない。西田はまず西洋哲学が問題にしたものに正面から向き合い、その議論のなかに身を投じ、どこまでもその地盤の上で思索を深めていった。」(1)
西田幾多郎は、多数の人生の悲哀をなめた。それが哲学の動機であった。禅にも、関心を寄せた。
西田哲学は、禅にも批判的である。むしろ浄土真宗に親しみをもっていた(2)。禅の方法は、難しすぎる。真宗は、庶民がわかるように説き、同じく究極に導く。
禅の公案の方法も只管打坐の方法も、庶民がするには、難しすぎる。
そして、禅は社会参画、世界を創造していく側面が、修行中も、見性後も弱い。西田は、そこを批判して、新しい実践を提案した。それが、行為的直観の方法で生きることである。至誠の行為的直観で暮らせば、究極の絶対無に至る。
それを体験してからも、創造的世界の創造的要素として生きる行為的直観は、特に,
自覚的直観、創造的直観、自覚即直観とよぶ。至誠の行為的直観は、平凡な家庭
の場、職場での生き方である。世界の立場にたって、そこの社会を変革して行く世界を創造していく生き方となる。
西田哲学は「自己」は「創造的世界の創造的要素」と繰り返しいう。
社会、世界の創造に参画するのである。
現実に、存在した中国、日本の禅には、これが弱い。封建社会がそれを許さなかった側面がある。現代的視点から、そこを批判している。親鸞上人は、まだいい。庶民が人生の悲哀を克服する道を開いた。しかし、それも西田が生きていた時には核心が失われて誤解されていた。
こうした、日本の仏教のありさまを見通した西田に
は、師の雪門玄松の行動も大きく影響しただろう。身心脱落、見性の人で、臨済宗の国泰寺派の管長であったが、弟子の育成をやめて、庶民の中に身を投じた。まず、
金沢郊外の庵で暮らした。そこへ、西田が参禅した。玄松は、その後、福井県の漁村に移り住み、一生を終えた。そこに西田はヒントを得たであろう。
師は、悟りを得た後にも、庶民の中で生きた、そこにおける平凡な生活が世界創造であったはず。庶民の中で暮らす師には、形ある「禅」は見えなかっただろう。仏教が、西田の当時、特殊な形になっていた。
社会の創造とかけはなれて、「宗教がある特殊な人間の特殊な意識であるというならば、それは閑人の閑事業たるにすぎない。」(3)
マインドフルネスも閑人の趣味になってはならない。
西田哲学は、一部の人間に偏った禅にも真宗にも満足せず、それらを包括して、すべての人間のすべての場面で生きる実践を提案したのである。根底を見届ける道にいる局面では、家庭や職場で、至誠の行為的直観の生き方、根底をみてからも、家庭や職場で生きるのであるから、自覚的直観(創造的直観、自覚即直観)で、その生きる場所で、世界を創造する。すべての人間がどこでもできる生き様である。
ひるがえって、ブームのマインドフルネス、ジョン・カバット・ジン氏のMBSRは、仕事や対人関係でない場での対象的に認識される感覚や身体の動きレベルの対処法であり、浅い段階である。対象的に認識できない問題にうめくひとが多い。人生の悲哀。なぜ生きるのがつらいのか、自分とは何か、死んだあとどうなるのかまでは、MBSRは教えてくれない。MBSRは、彼自身が浅いものと断言している。
「全体性」は、道元禅師から学んだのであるから、根源的なものである。そこから、世界や自己が生まれる元、すべてを包括する根底である。
これを庶民が、真剣に探求するのであれば、西田哲学の方法になる。公案は、室内の秘密であるから、庶民には参加させてもらえない。ただ、坐禅するだけというのでも、根底の全体性に向かう方針がわからない。
深いマインドフルネスは、まだ誰も行っていない。
マインドフルネス精神療法研究会で開始したばかりである。西田哲学が教えてくれそうな気がする。藤田正勝氏が指摘されたように、西田哲学は襌を説明したものではない。それを越えて、真宗、キリスト教をも包括した人間の根底を基礎にした人格的自己の生き方を
提案している。特定宗教のすべてのドクサ(偏見、偏向)を越えて、人間の根本的な事実の立場から自己や社会を見ていこうとする立場であるといえよう。
V・E・フランクルがいった「一人類教」の位置にある。
- (注)
- (1)
藤田正勝『西田幾多郎』162頁、岩波書店、2007
(2)竹村牧男『西田幾多郎と仏教』(大東出版社)に詳しい。
(3)西田幾多郎の最後の論文『場所的論理と宗教的世界観』にある。
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Posted by
MF総研/大田
at 06:40
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さまざまなマインドフルネス
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