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(11)仏教、禅には誤解が多い、(その続き) [2015年07月07日(Tue)]

最も深いマインドフルネスの実践の哲学(11)

 =(11)仏教、禅には誤解が多い、(その続き)

 専門家の誤解をもう少し、西田幾多郎の言葉で確認しておきたい。 はやりのマインドフルネスも「対象的マインドフルネス」(二元観)であるから、方法を間違ってし まうおそれがある。
     「仏教においては、すべて人間の根本は迷いにあると考えられていると思う。迷いは罪悪の根源である。しかし て、迷いということは、我々が対象化せられた自己を自己と考えるから起こるのである。迷いの根源は、自己の対 象論理的見方によるのである。故に、大乗仏教においては、悟りによって救われるという。私は、この悟りという語 が、一般に誤解せられていると思う。それは対象的に物を見るということではない。もし対象的に仏を見るというご ときならば、仏法は魔法である。それは自己自身の無の根底を、罪悪の本源を徹見することである。道元は仏道を ならうことは、自己をならうなり、自己をならうというは、自己をわするるなりという。それは対象論理的見方とは、全 然逆の見方でなければならない。元来、自力的宗教というものがあるべきでない。それこそ矛盾概念である。仏教 者自身もここに誤っている。」(『場所的論理と宗教的世界観』旧全集11巻411頁)
 仏教者でも間違う、という。仏教の学者や僧侶でも間違うという。対象論理的に経典や道元の言葉を解釈する。(仏教に誤解が多く核心が失われていることは、竹村牧男氏(東洋大学学長)が指摘している。) それで、自己自身の真相にいたらないというのである。専門家は自分を道徳的で賢者だと思うからである。そして、伝統的見解という対象に縛られるからである。対象的に文字をよ く読み、解釈できるからである。自己を捨てるという根源にならう実践をしないから、かえって、悟れない。マインドフルネスも同様のことが起きてしまう。 西洋哲学は二元観であるのが多い(西田幾多郎、後述)から、西洋的マインドフルネスも、二元観になる傾向がある。その伝統に縛られる。 ずっと感覚、感情に気づき観察することを強調しすぎると、不快な感覚を見ることに執着して問題が悪化する人がでてくるだろう。

 哲学、思想、宗教、信条、信念によって個人は、行動している。マインドフルネスの実践にも強い影響を与える。マインドフルネスの実践も、どの程度まで実践するかは、個人が教えられて、信じたものが強い影響を与える。
【目次】最も深いマインドフルネスの実践の哲学
下記に仏教の誤解についての記事があります。大切なものが失われています。


インド大乗仏教にあった慈悲(現実社会の一般人に対する援助)が失われた
V・E・フランクルの教育論
 学問における偏向、仏教や禅の学問にも起る、おそらくマインドフルネス心理学にも。

Posted by MF総研/大田 at 08:29 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL