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2日間の講座が終わりました [2015年06月21日(Sun)]

2日間の講座が終わりました

 意志的自己レベルのマインドフルネスの専門家の新しい資格認定(もうすぐ、登録商票が完了します)の講座が終わりました。 土曜日は、日本マインドフルネス精神療法協会の新しい資格の2期生の第1回でした。今日、日曜日は、第1期生の9回目でした。

 昨日は、新しい受講生の方に、マインドフルネスとは何かを学習しました。 アメリカのものと、日本のものがあり、方法や到達点の違いがあること、他の坐禅や瞑想法とは違うことを学習しました。

 今日は、日本的マインドフルネスの肝である「場所の論理」を学習して、洞察しました。場所的論理の哲学を自己の心で洞察確認をしました。かなり、質疑応答がなされました。大変、面白かったです。 作用によって作られらた対象と作用とが、同じ場所にある。 自己は、場所である、器である、鏡である。すぐには、わからないのは当然です。

 ACTでも文脈としての自己が、「場所」であるといっています。これも、すぐに体験できるのではなくて、ACTを何か月か、実践した後、わかるものでしょう。 SIMTの実践も第9セッションですから、9か月目になっています。すぐに体験できるのではなくて、これから、1,2か月実践してからです。実践しないでわかったというのは、思考レベルであり、まだ身についておらず役にたちません(行動に影響しません)。その「哲学を帯びて」何日も瞑想して、また、行動時に洞察して、その哲学の真偽を確認しようと勤めます。1,2,3カ月、実践してみて「なるほど、これか」と行動的身体的に確認されます。

 自己は、思考された内容(概念としての自己)ではなくて、内容と作用とを包む場所である。ACTは、その場所には、内容がないというそうですが、西田哲学は、内容と場所とが同じ場所であるために、場所が内容を持っています。西洋哲学と東洋哲学の違いでしょうか。哲学が違うので、効果の見られる「適応症」「解決できる問題」が違うでしょう。
 東洋哲学のうちでも、西田哲学では、上記の意志的自己レベルの場所だけではなくて、叡智的自己の場所、絶対無の場所まであります。場所が深まると、作られたものも、作用も場所も、自己存在の意味も違ってきます。

 西田哲学は、禅を論理化したものと誤解されているようですが違うようです。道元襌、公案禅、キリスト教などを包含する、もっと深いもののようです。 禅は社会的世界創造的な領域に活かされているようにみえません。そこを越えていくのが、西田哲学でしょう。実践はどうするか。目的のない坐禅でも、公案でも、西田哲学でいう創造的世界の創造的要素たる人格的自己として自覚し、行動していく生き方からは離れているようにみえます。社会的、世界創造に弱い。苦悩する現場に活かされていない。どうするのでしょうか。

 欧米発のマインドフルネスは、社会貢献が著しいです。
Posted by MF総研/大田 at 22:35 | 私たち | この記事のURL