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(4)至誠とは自我を尽くすこと [2015年06月17日(Wed)]

最も深いマインドフルネスの実践の哲学(4)

 =(4)至誠とは自我を尽くすこと

 西田幾多郎はこう言っていた。
  「物となるということは、受働的となるということではない。至誠は無限の動でなければならない。 又或一つの物に固定するということではない(母の我子を愛する如くに)。至誠とは何処にも止まら ない心でなければならない。毫厘も止まる所あらば、私欲である。」(2)

 前の記事でははっきり書かなかったが、禅という宗教も、西田幾多郎から批判されていた。 「坐禅が悟りである、坐禅さえしていればそれでいい」というとしたら、西田から言えば、それも、そこ にとどまる私欲である。公案を通過すれば、完成であるというのも、西田から言えば、そこに留まる 私欲となる。西田は、歴史的に存在した禅とも違うのである。哲学者であるから、自ら実践しないことでも、絶対的一 者の立場から、学問的(この場合、「哲学」)真実を言うのであろう。
 このことは、西田哲学を指針とするマインドフルネスSIMTでは、なぜそう西田が主張したのか探求していく。 

 我々は、世界を創造していかねばならない。坐禅や公案が世界の創造であれば、西田哲学と一致する。個人は、たった一人、唯一・一度的存在である。絶対的一者に対している。個人は絶対的一者の焦点となって、世界を創造していかねばならない。世界のすべての人が坐禅や公案だけをしたら、食べ物がなくなるので、人類は滅亡する。

 西田の、上の続きはこうである。
 「それでは至誠とは単に無心ということであるか。否、それは所として心ならざるはないということ で(なければならない、心が天地に充満していることである。至誠ということは、無意識ということでは ない。そこには常に主客が具わっているのである。物となって識別することである。又それは単に衝 動的ということではなく、己を盡すことでなければならない。 物を全体との関係に於いて見ることで なければならない、絶対の立場から見ることでなければならない。」(3)

 これも、理解することはとても難しい。西田の「至誠」は、歴史的に存在した禅より厳しいことをいう。微塵も人間の自我のな い絶対者の立場からである。己を盡すところ、そこには、坐禅も公案もない。 「無心」が出てきた。日常語でも時々、言うが、西田の「無心」は深い。

(続く)

    (2)西田幾多郎「ポイエシスとプラクシス」『西田幾多郎全集』第十巻、岩波書店、一九六五年、176 頁。
    (3)同上、176頁。

(語句)
★SIMT:Self Insight Meditation Technology/Therapy。日本的マインドフルネス。大田健次郎 (2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社、大田健次郎(2014)『マインドフルネス 入門』清流出版。
★学問的マインドフルネス⇒この記事
★社会的マインドフルネス⇒この記事
★世俗的マインドフルネス⇒この記事
★宗教的マインドフルネス⇒この記事
 =それぞれの教団によって、哲学とマインドフルネスの方法が違う
Posted by MF総研/大田 at 21:05 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL