道元禅師のマインドフルネス(13) [2015年05月13日(Wed)]
★今朝、東北でかなり強い地震がありました。石巻でお会いした人たち、大丈夫でしょうか。
マインドフルネスで乗り越えてくださればありがたいですが。
(この記事は「宗教」レベルです。意志的自己レベルのSIMT、叡智的自己レベルのSIMTは、宗 教ではありません。)
道元禅師のマインドフルネス(13)
5つの禅宗の指導法のうち公案を用いる方法と只管打坐の方法がよく知られている。 道元禅師も
公案での説法をすることもあった(『永平広録』にまとめられている)が、只管打坐を強調した。公案
を用いず、ただ坐禅をする方法である。
前の記事で公案禅をみたが、「マインドフルネス」とどう関係するか、現代人にはわかりにくいだろう
。
「マインドフルネス」を禅にさがすとすれば、この只管打坐の方法に見出しやすい。井筒俊彦の説
明を見る。
このようにしっかり据え置いた体で、人は、内面的な一点集中、油断なく注意深いままに保たれた 心を強化し続けなければならない。しかし奇妙なことに、この一点に集中した意識は、焦点を合わ せるべき明確なものを何も持つべきではないのである。つまり、集中の具体的対象が、実際には何 も用意されていないのだ。(中略) 息を数えたり、出る息、入る息を追うような最も基本のヨーガのテクニックにさえも依存することはな い。ただ高度な集中の状態のみが持続されるべきであり、心はいわば、より深くに沈み、思考と概 念の領域を越え、それから幻影の潜在領域を越えて、<存在>の純粋に一点集中された覚知に 入るまで深く沈んでいくのである。」(井筒俊彦、2014:p196) もう少し具体的に言うと、 心をすべて解放して、器であり鏡であるかのようにして、意識されるすべてに解放している。生滅に まかせる。意志的自己レベルのSIMTで「注意の分配」を習得したが、見えるものがある、聞こえる音がある、想起、思考、本音 などがある、現れるのをすべて意識されるままにしていることを続ける。 うつ病の人や悩む人は、思考を回転させない(道元禅師の言葉では「心意識の運転」をやめる) という抑制スキルのトレーニングをする。否定的思考が感情を生み、症状が悪化するからである。し かし、道元禅師の相手は病気の人ではなかった。うつ病の人や瞑想の初心者と違って、思考が回 転し続けることはない。だが、思考を絶無にせよとは言わない。坐禅のすすんだ人でも社会的行動 をすれば、思考が絶無というわけでもない。起きて消えるにまかせて、思考が起きることも、内容も 善悪の評価はしない。道元禅師は、ここを 「心意識の運転をやめ、念想観の測量をやめる」という後半がそうである。 曹洞宗も坐禅ばかりではなく、行動中の心得がある。社会的行動時には我見我執を持つ人との 接触は避けられない。こちらも、我見我執による思考や態度、行動が起こりがちであるが、そういう ものも意識してとらわれず、紛争、論争のないように生活していく。自分や肉親の介護、がんなども 気がかりである。しかし、六感の働きにまかせて、自我の見識で評価せず受け入れ、自分の選んだ価値(出家でない我々は 「仏道」という単一の価値ではない)実現のために働いていく。すると、 いつか、「自己を忘るるなり」ということがあり、次のような真の自己を証明する時があるという。 「仏道を信ずる者は、須らく自己本道中に在って、迷惑せず、妄想 せず、顛倒せず、増減なく、 誤謬なきことを信ずべし。」 (『学道用心集』、1989,全集巻5:p37) 体験ない間は「信じる」のであるが二元観であるがやむをえない。自己はもともとから道中に在って、迷惑せず、妄想 せず、顛 倒せず、増減なく、誤謬がなかったという根源を体験するときがくる。身心脱落である。これを体験すれば「信」も脱落する。見た人は信じることはなくなる。信じるも のがある限り二元であり、推測であり、一元を体得していない。自己洞察瞑想療法(SIMT)の方法は、3つのレベ ルとも、只管打坐の哲学と方法を応用したところが多い。 包む、映すというのは、実は深いのである。それを、意志的自己レベルのSIMTにさえも、セッション1に置いた。わかるひとはわかる。クライエントをあなどってはならない。わかる人がいるのである。向き不向きがある。わからない人は、指導者も自分も「だめだ」と評価せずに、わからないことはわからないままにして、わかる範囲で実践していくといい。ベテランの先達を否定的評価をする自分は、それほど偉いのであろうか。そう、自分がだれよりも偉いのである。自分の基準で評価するのである。それで、自分の問題から脱皮できず、苦がやまないのである。 公案の方法と違って、只管打坐の方法は厳しくない。支援者から追い込まれる方法ではない。自 分の問題解決の初心にも只管打坐に準じた方法であり、人格的自己レベルは、只管打坐であり、 他者を支援する時にも只管打坐に準じたやさしい方法である。しかし、真剣に実践する人は少な い。私があった人は、何千人もいたであろう。20年活動しているが、同行の人は、10名程度である。だが、これからは、増えていくような気がしている。機が塾するのである。
『道元禅師全集』1989〜1993、春秋社、全7巻 巻1、1991、『正法眼藏』上、七十五巻本の第一から四十五まで 巻2、1993、『正法眼藏』下、七十五巻本の四十六から七十五まで、十二巻本、『弁道話』など 巻3、1988、『永平広録』上、第一から第五まで 巻4、1988、『永平広録』下、第六から第十まで 巻5、1989、『語録』、普勧坐禅儀、学道用心集、永平元禅師語録、真字『正法眼藏』など 巻6、1989、『法語・歌頌等』、典座教訓、辨道法、仏祖正伝菩薩戒作法など 巻7、1990、『法語・歌頌等』、宝慶記、正法眼藏随聞記、和歌集など (語句) ★SIMT:Self Insight Meditation Technology/Therapy。日本的マインドフルネス。大田健次郎 (2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社、大田健次郎(2014)『マインドフルネス 入門』清流出版。 ★学問的マインドフルネス⇒この記事 ★社会的マインドフルネス⇒この記事 ★世俗的マインドフルネス⇒この記事 ★宗教的マインドフルネス⇒この記事 =それぞれの教団によって、哲学とマインドフルネスの方法が違う 文献: 西村惠信、2014『禅語を読む』角川学芸出版 鈴木大拙、1987『禅』筑摩書房 道元禅師全集巻2、1993、春秋社 大田健次郎、1996『道元禅師』近代文藝社、道元の誕生から死亡までの伝記。 無分節の説明は、下記がある。 井筒俊彦、2014『禅仏教の哲学に向けて』ぷねうま社 井筒俊彦、1991『意識と本質』岩波書店。 ★道元禅師のマインドフルネス
(2)道元禅師のマインドフルネスの心得 ☆「善悪を思わず、是非を 管することなかれ」「心意識の運転をやめる」 等 (3)すべての人の根底は仏性という道元禅師(西田哲学でいう絶対無、絶対的一者) (4)道元禅師には出家至上主義の言葉もある 核心の絶対無(身心脱落という)は通底するが (5)道元禅師のマインドフルネス・深い哲学は現代にも通用する=西田幾多郎、井筒俊彦、鈴木大 拙、竹村牧男 (6)禅体験は、認識論的・存在論的・行動論的 =道元禅師「諸法の仏法なる時節」「身心脱落、脱落身心、脱落脱落」 (7)道元禅師の「身心脱落」は、井筒俊彦の「無分節」で西田幾多郎の「絶対無」で人格的自己の 基礎 (8)道元禅師「仏教・禅の真相は文字の学者にはわからない」 (9)禅のマインドフルネスのコツは「思考の厳格な停止」 (10)思弁的でない中国人によって禅の方法が開発された (11)中国の禅は5つの宗風があったがみな一つという道元禅師 (12)公案を用いる禅の方法 (13)只管打坐の方法 |
Posted by
MF総研/大田
at 16:08
| さまざまなマインドフルネス
| この記事のURL