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NHKこころの時代「日本仏教のあゆみ」(2) [2015年05月05日(Tue)]

NHKこころの時代「日本仏教のあゆみ」(2)
 =第1回に関して(2) 南都六宗

 NHK Eテレビの「こころの時代」で6回シリーズで、竹村牧男先生(東洋大学学長)が「日本仏 教のあゆみ」についての説明が始まっています。 ここで同時並行して記事にしている道元禅師と関連づけてみます。 道元禅師は、ご自分の以前の仏教を肯定していません。その時、道元禅師の視野にあったものは、平安仏教の密教や南都六宗の学問仏教だったでしょう。

 竹村先生が、1回目で多くの時間をさかれたのは、南都六宗の各派の内容でした。奈良時代に 中国から輸入された漢字で書かれた仏教経典や論書の研究がされたのです。 先生によれば、次の6です(竹村牧男,2015a、竹村牧男,2015b)。
    1、三論宗。『中論』『十二門論』『百論』の研究。
    2、成実宗。『成実論』の研究。
    3、法相宗。『成唯識論』の研究。
    4、俱舎宗。『俱舎論』の研究
    5、華厳宗。『華厳経』の研究。
    6、律宗。戒律の研究。
 道元禅師は、こうした学問仏教を生きた仏教ではないと批判したのです。つまりは、 現実の生きた自分の問題解決にはならない、知識にすぎないというわけです。知的レベルであり、 行動化されず、まして実存的な生死にかかわる自己存在論的解決を与えていないというのです。 現代の学問の仏教も、現実のさまざまな社会問題には、直接活かされているということはいえませ ん。臨床心理学や精神医学は、現実の個人に実践化、生活化、体得化されるよう、現実の問題の 支援に活用されますが、仏教や禅の学問はそういう直接の支援はせず、学問的研究の枠内にとどまっているわけです。 道元禅師もそこを指摘したのです。

 輸入されてくる大乗仏教経典や南都六宗の学問仏教にあきたらない日本の宗教者、日蓮、 法然、親鸞、道元、白隠、空也、性空、明恵、盤珪、慈雲、良寛などが、実践を伴う日本独自の仏 教を開発していきます。それを竹村先生が2回目から説明してゆかれます。道元禅師は第5回です 。現代の本などで教えられている道元禅師とは違う側面に竹村先生は焦点をあてます。 仏教も禅もその個人がどこまで深く実践、体得したかということで解釈がちがってきます。 ジョン・カバット・ジン氏は、MBSRが仏教、禅だというのですし。マインドフルネスのように現実の問 題への適用ということは、伝統仏教の各派も、今の禅も、あまり強調されませんね。つまり、仏教も禅 も現実の一般の人のさまざまなレベルの心理的、精神的、スピリチュアル的な問題を支援できるも のではなくなっているというわけです。深い哲学があるのに、教え方が難しすぎるのです。言葉で言わず、公案と目的を持たずただ坐禅、言葉での説明がありません。時代、環境がちがうのです。現代の在家には、わけがわかりません。MBSRは、言葉で説明します。カバット・ジン氏による日本仏教の批判でもあり、新しい活か し方の提案でしょう。

 では、道元禅師による学問としての仏教の批判をみますが、 その前に、文字の研究という学問と実践の違いを考えます。
 現代の大学などでの仏教や禅の学問が、現実の社会の現場には活用できていないこととマインドフルネスが同じことになっては困ります。

文献:
竹村牧男、2015a『日本仏教のあゆみ』NHK出版
竹村牧男、2015b『日本仏教思想のあゆみ』講談社学術文庫


★NHKこころの時代「日本仏教のあゆみ」 参考
    <目次>道元禅師のマインドフルネス
     =「宗教的マインドフルネス」ということになります。仏教の核心の「正覚」はあるのに、「仏道」という単一の価値追求の出家(妻帯しない、生活のための職業を持たない)中心の傾向の思想があり、家庭や職場を持つ人にはとても難しい宗教観。そのままでは、実践する人が少なくなっている。
    深い哲学と至誠に類似する実践がある、これを「社会的マインドフルネス」にすることが、日本人の責務。


Posted by MF総研/大田 at 07:44 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL