道元禅師のマインドフルネス(4) [2015年04月25日(Sat)]
道元禅師のマインドフルネス(4)日本が生んだ世界的な哲学者(井筒俊彦による)、鎌倉時代の道元禅師。 現代でも通用する自己存在の哲学。坐禅が悟りという浅いレベルもいうが、生死を超えるという境地まであるので、がん患者の死の不安のターミナルケア、長い闘病期間での死の不安のメンタルケア、うつ病の予防に効果があるのは確実である。だが、『『正法眼藏』は、難しいから、現代人にもとりくめるような社会的マインドフルネスにしなければならない。そういう豊かな可能性を持つ日本的マインドフルネス。それなのに、ひとつわかりにくい関門がある。竹村牧男先生が、専門僧侶の自分たちだけ、出家者至上主義の仏教を批判した大乗仏教や聖徳太子の在家救済、慈悲、常住の大悲を強調されたのに、なんと道元禅師には、出家至上主義とみられる言葉もあるので、混乱させられる。西田幾多郎、鈴木大拙、井筒俊彦、竹村牧男先生などから、最も深い哲学が道元禅師にあるのに、出家至上主義のような言葉も見られる。これが、社会貢献に積極的でなくていい根拠にされてきた。 親を捨てよ、妻子を捨てよ、職を捨てよ、仏道だけに励め、これは、まさに 出家至上主義である。ボランティア活動などするくらいなら、出家の勤めである坐禅に励めとも受け取れる。 ところが、治世産業も仏道、衆生を忘れるなという言葉もある。これなら被災地や貧困国の支援のボランティア活動は多いに奨励される。道元禅師は、待機説法を柔軟に行っている。 ボランティア活動などをしない根拠は、前者をよりどころとする。 マインドフルネスには浅いレベルから深いレベルまである。道元禅師のものも、浅い段階、深い段階がある。 これをどう解釈していくか、道元禅が社会的マインドフルネスになりうるかの課題である。ジョン・カバット・ジンは道元禅師を尊敬している。多分、鈴木大拙を通した解釈なのだろう。浅い感覚レベル、身体の動きのレベルのマインドフルネスを開発した。だが、ジョン・カバット・ジンは、「全体性」もいう。一生かけて探求すべきことの、ほんの入口が、MBSRとご本人がいう。 道元禅は在家に説いたり、出家打向けの説法もある。真意の学問的解明を待てないから、当面、西田哲学、井筒哲学、鈴木禅学、竹村仏教学(?)で、社会的マインドフルネスの理論の根拠とさせていただく。 幸い、宗教と非宗教との区別を西田哲学が明確にしているので、 宗教が嫌いな人は、叡智的自己のマインドフルネスでいけばいい。 死を超えるのであれば、宗教でもいいという人は、人格的自己レベルのマインドフルネスを実践すればいい。明解である。 ★道元禅師のマインドフルネス(目次) |
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Posted by
MF総研/大田
at 04:15
| さまざまなマインドフルネス
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