NHKこころの時代「日本仏教のあゆみ」(1) [2015年04月23日(Thu)]
NHKこころの時代「日本仏教のあゆみ」(1)NHK Eテレビの「こころの時代」で6回シリーズで、竹村牧男先生の「日本仏教のあゆみ」 が始まりました。19日(日)が第1回でした。竹村先生は、私が最も尊敬する仏教学者です。(東洋 大学学長) ぜひ、このシリーズをご覧になってください。日本仏教の素晴らしさと、日本的なマインドフルネス の可能性を再確認できるでしょう。テキストもあります。(竹村牧男『日本仏教のあゆみ』NHK出版)竹村先生は、仏教の研究者でありながら臨済系の禅の悟道の人です。絶対無、身心脱落の体 験があるというわけです。学問と禅の実践を兼ね備えた人は、数えるほどしかおられません。稀有 なお一人です。 悟りを得た後に、経典を読む場合、体験のない文字の学者が表層的に解釈するのを、そうではな くて、絶対無の立場のない立場から経典の深い意味を読み取ったり批判できる智を「 看経の眼」(かんきんのまなこ)と言います。竹村先生の著書のすべては、そういう眼から 見た仏教や経典の解釈を教えてもらえます。私が本、講座のテキスト、ブログなどで書く仏教や禅の記述は なるべく竹村先生の解釈と違わないないように務めています。(それでも、もちろん私は読み違いをおかします。専門の学者でもなく、宗教者でもありませんから) 第1回から、竹村先生らしいとりあげかただな、と思いました。聖徳太子の著作であろうと推定され ている 「三経義疏」(さんきょうぎしょ)が、権威ある法華経の説、静かな場所での坐禅を批判しているというのです。 現代までも通用する批判のようです。町を離れて静かな場所で坐禅(マインドフルネスに似た瞑想 )するようにすすめている法華経を批判しているというのです。 飛鳥時代に、このような出家主義の仏教を批判した人がいたとは驚きです。現代でも、家族が物 音を立てる自宅ではマインドフルネス、坐禅、瞑想ができない、こういうものは静かな寺院、山寺の 道場でしなければ身につかないと思っている人が多いでしょう。それは間違いだというのです。 私もマインドフルネスの呼吸法、自己洞察法を、静かな場所でしかできないという人に、「そんな 逃避ではいけない。家庭で家族がテレビをつけていて音が聞こえる環境でもしなさい」といいます。 「ゴーゴーと音がする電車の中でも、患者や看護師などがせわしく動きまわり、声が聞こえる病院の 待合室でもしなさい」といいます。 静かな環境にいる僧侶しか救われない仏教、坐禅ならば、在家、一般人は救われないではない か、そういう教えであれば、社会的な存在意義が弱いではないか、という批判です。一体、何のた めの仏教なのか、一体何のために出家するのだろうか。出家しなければ救われないような教えなら ば、出家しか救われないのであるから、出家という自分だけの利益ではないか、 修行するのに、在家からお布施や衣食住のサービスを受けているはずだが、在家へのお返しの教 え、自分と同じ救済を得る方法をとかないのか・・・・、そういう種類の仏教批判は、2千年昔のインド で部派仏教教団を批判した(*)大乗仏教からあり、昭和までありました。そして、聖徳太子もそういう 批判をしていたというわけです。平成には、批判もあまりみられなくなりました。従来の仏教への失 望、絶望でしょうか。 そんな時代背景の中で、「マインドフルネス」がアメリカで起こり、日本に輸入紹介されているので す。しかし、フランス、タイやアメリカに行かないと習得できないというのでは、日本人は救われませ ん。国内でいくつかマインドフルネスの教習所があるといっても、数百キロも離れたところも行けませ ん。悩みも浅いものから深刻なものまであります。マインドフルネスのモデルになった初期仏教の「 正念」は、 唯一の「価値」=解脱を求めるものです。現代の人のように、さまざまな職業の価値、家族の幸福、 健康な心身、社会貢献活動などの多様な「価値」の追求、切り替えを想定していません。 (*)この批判を、7回目のSIMTカウンセラー育成講座で大乗仏教からの批判を検討しました。部 派仏教の出家至上主義。仏教者を4種に分類する思想、妻帯する夫婦の自然な男女の愛情があ れば最高の解脱はできないとする思想、主体の空はいうが客体は実体視する思想(人空法有)・・ ・。これらはみな大乗仏教から批判されました。親鸞聖人は妻帯のままで救済される道を開かれました。西田幾多郎によれば、親鸞聖人の救済も道元禅師の禅と同じ絶対無であるといっています。竹村先生も同意です。 ★NHKこころの時代「日本仏教のあゆみ」
=寺院の道場に逃げるな。葛藤が渦巻く家庭、職場、対人場面で心を鍛錬せよ (2)奈良時代の南都六宗 仏教の経典、論書の研究 (3)学問的マインドフルネス =文献だけあるマインドフルネス (参考)宗教的マインドフルネスと社会的マインドフルネス (4)テレビ第2回「法華思想の開花」 (5)テレビ第3回「密教の曼荼羅世界」 (6)テレビ第4回「浄土への憧れ」(1) (7)テレビ第4回「浄土への憧れ」(2) (8)テレビ第5回「禅ー自己を求めて」(1) (続く) (10/10/2015 追記) 忙しくて、続きを述べている間がありません。しかし、竹村先生が、これだけ時間をかけて発掘なさったことをうもれさすのは、もったいないです。すべての仏教人と仏教に期待する国民が見てもらいたいいものです。開祖の深いものを新たに紹介する「強力なリーダーが必要なことでしょう」と述べられています。世界中がマインドフルネスとして仏教に注目している今、挽回のチャンスです。多勢の一般的解釈に習うのではなく、開祖およびその根底の絶対的一者と対決した唯一・一度的存在の自分の解釈を開祖も期待しているはず。 すべて録画しましたから、時間ができたら、また、続きをみます。 といいながら忙しいのが続いて、感想を述べる暇がありません。でも、どうしても困った傾向をみました。 (6)最終回 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3508
★<目次>竹村牧男氏「日本仏教の歩み」 ★<目次>西田哲学からみる科学学問、そして哲学 〜マインドフルネスSIMTと表裏 =科学、学問、哲学は、絶対無の立場に立つべきことを自覚しておくべきである。科学はある立場に立つことが多い。哲学は絶対無の立場でないものもある。 ★<目次>道元禅師のマインドフルネス =「宗教的マインドフルネス」ということになります。仏教の核心の「正覚」はあるのに、「仏道」という単一の価値追求の出家(妻帯しない、生活のための職業を持たない)中心の傾向の思想があり、家庭や職場を持つ人にはとても難しい宗教観。そのままでは、実践する人が少なくなっている。 深い哲学と至誠に類似する実践がある、これを「社会的マインドフルネス」にすることが、日本人の責務。 |
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Posted by
MF総研/大田
at 04:16
| さまざまなマインドフルネス
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