道元禅師のマインドフルネス(3) [2015年04月21日(Tue)]
道元禅師のマインドフルネス(3)道元禅師は釈尊と同じ「正覚」を得た人である(注1)。絶対に対象とはならない最も奥底の真の 自己、すなわち、すべての人間の絶対平等性、西田哲学が人格的自己の根拠とするところを道元 禅師はこういう。
だから、本来、日本の禅宗から、現代人すべて(妻帯しない僧侶だけでなく)のさまざまな心理的 葛藤から起きる問題、苦悩を解決援助できる「社会的マインドフルネス」が開発されてもよかったの である。 私は道元禅師の只管打坐でうつ病が治り、1993年から他者 のうつ病改善の援助にのりだした。最初は道元禅師の言葉を用いた。そのために、宗教とみなす 人もあった。10年ほど前から、道元禅師の言葉を全く用いずに、心理学、脳科学の言葉を用いるよ うにした。なければ造語した。基本的自己洞察法、行動時自己洞察、本音などが造語である。 こういう造語のもとになったものは、みな道元禅師の用語がある。だから、マインドフルネスのうち でも自己洞察瞑想療法(SIMT)は、やろうと思えば、徹底的に道元禅師の言葉で記述できるだろう。それをすると、宗教だとみなされるのは、公的場面でも行う心理療法としてはやりにくい。宗門の人が社会的マインドフル ネスにのりだすならば、してくださるだろう。 鈴木大拙、西田幾多郎は道元禅師と同じ「正覚」を得た が「宗教者」とならず、禅学者、哲学者となった。私は「宗教者」とならず、ただの一般人を通した、 在家得度さえもしていない。だから、無宗教者である。日本では宗教が忌避される場があるからで ある。学校、企業、公的施設・・・、そしてうつ病のクライエントも宗教を警戒する。なぜいけないのか 、2,30年程前までは人倫に劣る宗教者、犯罪をおかす宗教者が多かった。宗教とは何か。 また、宗教にもくらまされなくなる「正覚」とは何か。道元禅師のいう自己の根源を体験することであ る。だが、うつ病を治したり、教育、ビジネスの現場でのマインドフルネスの心得は、宗教レベルで なくていい。浅いマインドフルネスで足りる。 がん患者の死の不安の支援しかし、がん患者さんの「死」の不安は、 正覚レベルでないと実際には解決しないかもしれない。上記の自己の根底の無評価は「生死」もないのである。道元禅師には 次の言葉がある。
がん患者さんのための人格的自己(自我に死にきり新しい自己に目覚めた自己ならぬ自己)レ ベルのマインドフルネスが現代にとても貢献するだろうという根拠である。 このような宗教レベルのマインドフルネス心理療法が「がん病棟」でも忌避されるのだろうか。
(注2)「学道用心集」、「道元禅師全集」第5巻、春秋社、1989年、16頁 (注3)「生死」巻、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、528頁。 |
Posted by
MF総研/大田
at 04:31
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