二元観のマインドフルネスはいずれ限界にぶつかる [2015年02月27日(Fri)]
板橋勇仁氏の西田哲学研究に学ぶ(8)二元観のマインドフルネスはいずれ限界にぶつかる人は、自己を基体化する。さまざまな産業領域で、学問を行う人も、自分の立場を絶対視する。 主観主義的な見方で世界や人間を見て扱う危険をもつ。こうした転落を防ぐ手立ては、行為的 直観としての行為それ自身の内には存し ない。意志的自己、行為的自己(叡智的自己)に見える専門家でも、自分でもうつ病になり自殺もある。さまざまな産業療域で自分の専門スキルの内にクライエントを閉じ込めることがおきる。
ほとんどすべての専門家が叡智的自己である(自覚している人は少ない)が、やはり自己をそ のまま残していて、主観主義たること、自分と他者の本来を失う。 ここで「本来」とは、個人個人の個性的な実現価値や人格的な自己存在そのものと見ていいだろう。専門家は行為による喜びを得るが、いつも人格、生命を傷つけることがおきる。 「世俗的マインドフルネス」こうして専門家は、自分の立場を絶対視して、自分の価値を実現しようとして行動する。その時 の作用は、行為的直観である。この時、自己を残して対象的二元観である。欧米から輸入されて いるマインドフルネスは、その二元観である。その懸念を示した研究者はいたが、ここを具体的に指摘した論文は はじめてだろう。
(人間福祉学研究、関西学院大学) (21ページ以降) 私が繰り返しいってきた、「さまざまなマインドフルネス」がある。日本には、 昔から一元観の人間像があった、これに基づくマインドフルネスでなければならないといってきた ことである。 人の苦悩には深いものがあり、二元観によることを大乗仏教、日本の仏教は指摘してきたのであ る。このことを考慮しないで、マインドフルネスを技法として行動療法的に用いる傾向になってい る。限界がある。藤田氏の指摘である。 叡智的自己の価値実現の価値ではなくて、存在価値の重大さを日本の哲学は、道元、親鸞以 来、教えてきたのであった。鈴木禅学や西田哲学が 学問的に論じてきた。 叡智的自己の価値も重要であるが、それはそれぞれの専門家の立 場、一面にすぎない。比較できない価値が人格存在である。専門家のなすべき価値よりも大切 な人間の生命そのもの、存在価値がある。 板橋勇仁氏の西田哲学解釈によれば、上記の引用文であるが、さらに別の箇所を見よう。
板橋勇仁氏による西田哲学研究に学ぶ
(2)自覚的直観、創造的直観 (3)自覚的直観、絶対的一者に結合する思惟、行動 (4)自覚的直観、他のひととの関連づけ (5)実践の方向、智慧、哲 (6)科学はある特定の限定された立場であり、世界の立場でない (7)人は、自己を基体化し自己の評価の目でみる (8)二元観のマインドフルネスはいずれ限界にぶつかる
★抑うつ症状の改善のマインドフルネスはまだまだ ★さまざまなレベルのマインドフルネス ★専門家のエゴイズム ★藤田一照師の懸念 (人間福祉学研究、関西学院大学) (21ページ以降) |
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Posted by
MF総研/大田
at 07:30
| さまざまなマインドフルネス
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