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二元観のマインドフルネスはいずれ限界にぶつかる [2015年02月27日(Fri)]
★叡智的自己、人格的自己の探求実践の研究会
★意志的自己レベルのSIMTの実践、体験会

板橋勇仁氏の西田哲学研究に学ぶ(8)

 二元観のマインドフルネスはいずれ限界にぶつかる

 人は、自己を基体化する。さまざまな産業領域で、学問を行う人も、自分の立場を絶対視する。 主観主義的な見方で世界や人間を見て扱う危険をもつ。こうした転落を防ぐ手立ては、行為的 直観としての行為それ自身の内には存し ない。意志的自己、行為的自己(叡智的自己)に見える専門家でも、自分でもうつ病になり自殺もある。さまざまな産業療域で自分の専門スキルの内にクライエントを閉じ込めることがおきる。
     「行為的直観は、具体的な行為として我々の自己のある目的ないしある立場において 成立す るもの以外ではありえないゆえに、それは我々の自己の基体化・実体化の契機を必然 的に含む と言わねばならない。 行為的直観は、それ自身として、我々の自己が、自らを基体化・実体化し 、 自らの本来を見失って主観主義的な世界像に基づいた生へと転落する危険を高めることです ら あり、またこうした転落を防ぐ手立ては、行為的直観としての行為ないし生それ自身の内には 存し ない。」(p237)
 行為的直観は、叡智的自己の自己形成作用である。知的自己、意志的自己の作用には、 思考作用や意志作用がある。思考も思考の主観主義、過ち、転落には気づかないし、是正する 手立ては、それ自身の内にはない。意志作用も行為的直観も自身の過ちに気づかない。専門家が過ちを犯す。
 ほとんどすべての専門家が叡智的自己である(自覚している人は少ない)が、やはり自己をそ のまま残していて、主観主義たること、自分と他者の本来を失う。 ここで「本来」とは、個人個人の個性的な実現価値や人格的な自己存在そのものと見ていいだろう。専門家は行為による喜びを得るが、いつも人格、生命を傷つけることがおきる。

「世俗的マインドフルネス」

 こうして専門家は、自分の立場を絶対視して、自分の価値を実現しようとして行動する。その時 の作用は、行為的直観である。この時、自己を残して対象的二元観である。欧米から輸入されて いるマインドフルネスは、その二元観である。その懸念を示した研究者はいたが、ここを具体的に指摘した論文は はじめてだろう。  現在ブームになっているのは、人間哲学のない、世俗的な利益追求のためのテクニック、技法としてのマインドフルネスであり、「世俗的マインドフルネス」と呼ぶことを提案している。

 私が繰り返しいってきた、「さまざまなマインドフルネス」がある。日本には、 昔から一元観の人間像があった、これに基づくマインドフルネスでなければならないといってきた ことである。 人の苦悩には深いものがあり、二元観によることを大乗仏教、日本の仏教は指摘してきたのであ る。このことを考慮しないで、マインドフルネスを技法として行動療法的に用いる傾向になってい る。限界がある。藤田氏の指摘である。
 叡智的自己の価値実現の価値ではなくて、存在価値の重大さを日本の哲学は、道元、親鸞以 来、教えてきたのであった。鈴木禅学や西田哲学が 学問的に論じてきた。 叡智的自己の価値も重要であるが、それはそれぞれの専門家の立 場、一面にすぎない。比較できない価値が人格存在である。専門家のなすべき価値よりも大切 な人間の生命そのもの、存在価値がある。
 板橋勇仁氏の西田哲学解釈によれば、上記の引用文であるが、さらに別の箇所を見よう。
    (注) Pxxは、板橋勇仁「歴史的現実と西田哲学」(法政大学出版局、6480円)のページである。

板橋勇仁氏による西田哲学研究に学ぶ

Posted by MF総研/大田 at 07:30 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL