板橋勇仁氏の西田哲学に学ぶ(3) [2015年02月05日(Thu)]
板橋勇仁氏の西田哲学に学ぶ(3)自覚的直観西田哲学の最終的な見方、それが、すべての人の自己や世界の真相とされるのである(従って 、マインドフルネスの究極)が、前の前 の記事 で、解説を見た。ところが、前の論文を理解していることが前提となっているので、 理解しにくい言葉がたくさんある。その一つ、自覚的直観がわかりにくいだろう。「自覚的直観」が理解しにくい。これは、禅の人、学者でも理解、ないし、信じない人が多い。 情的には、前の記事で、 述べたから、少し推測していただけただろうか。しかし、厳密な西田哲学の研究者の説明を示した い。板橋勇仁氏が西田の「自覚的直観」について、説明した部分は多いのだが、次にひとつ引用 する。
そして「形」の自己形成・自己表現としてのこの自覚の事実は、それが無基底的に<形作るもの なくして形作ること>として自らを形成し創造するという、この<こと=事>の絶対的事実性にお いて、自らの真実性を自証する。 しかもその「自証」とは、すでに明らかになったように、我々の自己の自覚が、自らを絶対に超越し た「絶対的一者」の自己表現において成立すること、したがって、唯一・一度の事実としての、我 々の自己の自己形成が、歴史的現実の本来的に決定された「形」の必然的に実現する過程に おいて成立することを、自覚し、自証することに他ならない。 それゆえに、「我々の自覚的自証を以って世界の自己表現の過程となす」(11,74)、 「我々の自己が世界の自己表現の過程として、自覚的に自証することが、直観である」(11,73- 74)と言われたのである。 西田はこうした自覚的な自証としての「直観」を、「世界自覚」としての「自覚的直観」(10,562)な いし「自覚即直観」(同)と呼ぶ。」(p235-236) 絶対的一者ここに「絶対的一者」が出てくる。自己を全く脱落して行動し、考える時に、絶対的一者と結合するのである。自己の行動、思惟が、絶対的一者、神、仏のもの(表現)と感じられるのである。自己を捨てているのに、行為や思惟が遂行されるからである。自己のない人の行為、思惟は、世界の行為、世界が遂行する思惟となるのである。
このことは、西田哲学、井筒俊彦、道元禅師などについて述べたので、それとの関連を簡単に、次に説明する。
板橋勇仁氏による西田哲学研究
(2)自覚的直観、創造的直観 (3)自覚的直観、絶対的一者に結合する思惟、行動 (4)自覚的直観、他のひととの関連づけ (5)実践の方向、智慧、哲 (6)科学はある特定の限定された立場であり、世界の立場でない (7)人は、自己を基体化し自己の評価の目でみる (8)二元観のマインドフルネスはいずれ限界にぶつかる
★抑うつ症状の改善のマインドフルネスはまだまだ ★藤田一照師の懸念 (人間福祉学研究、関西学院大学) (21ページ以降) |
Posted by
MF総研/大田
at 19:09
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