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哲学は、ある立場に立たない [2015年02月03日(Tue)]

板橋勇仁氏の西田哲学に学ぶ(1)

(1)哲学は、ある立場に立たない

 板橋勇仁氏の2冊の西田哲学に関する研究書を拝読しました。大変に難しいです。 西田哲学の最終的な立場を解明した部分を少し紹介します。マインドフルネスの世界的な究極を 言葉で示すとしたら、こうなるということです。事実、体験は別です。
 マインドフルネスは、自分の観察です。浅い自分の意識現象から最も深い自己まで観察するマ インドフルネスがあります。観察するものなくして観察することが最も深い自己になります。

歴史的現実における哲学の方法と論理

 板橋勇仁氏は、こういう。
     「前節において明らかになったように、西田哲学の方法とは「否定的自覚」「自覚的直観」であり 、それは<考えるものなくして考えること>の遂行を意味する。 そしてこの際、この方法は単に理論的に、ないし思弁的に遂行されるものにとどまるものではなか った。 哲学的な思惟とは、諸々の思惟の中でも、ある特定の立場(記号的表現面)においてではなく、 我々の自己がそこにおいて生きる歴史的現実の世界が、それ自身において自らを概念的 に表現する思惟である。 換言すれば、我々の自己が唯一・一度の固有なる仕方で自らを概念的に自覚し、表現する思惟 を焦点として、歴史的現実の世界が、自らを概念的に表現し、自覚し思惟である。 哲学の方法とは、ある意図や目的に基づく特定の立場において我々がいかに行為するかを求め ることではなく、そもそも我々のこの自己とはいかなる存在であるか、歴史的現実において唯一な る個として生まれ、働き、死にゆく我々の自己のその本来の在処はどこにあるのか、別言すれば、 我々の自己がそこにおいて自らの生命を持つ、真の現実の世界とはいかなる世界であるのかを 問い、自覚することに他ならない。」(p286)
 これは、西田哲学の研究論文であり、西田哲学の紹介書ではない。きわめて、難解です。多くの、解説が必要です。次の記事以下に、多少の解説をしてみます。
 ある立場(たとえば、出家の立場、社会と隔絶して良いという立場など)に立った宗教原理主義的マインドフルネスを解放して、現実社会の問題の解決のために活用しようという「社会的マインドフルネス」のためには、そういう社会的マインドフルネス者のための、西田哲学の入門書が必要です。

 「ある立場」「特定の立場」とは、井筒俊彦がいう、言語アラヤ識のレベル です。ゼロポイントを知らない、基体的自分を残している。しかし「考えるものなくして」は、絶対無、無分節である、自分世界が分かる以前、言葉が生まれる以前のすべての人の深層、それ自身単独であるような自分がないことが真相であると体験的にわかった(西田は宗教的体験という)から、そこから世界のことを考えていく立場である。

 そして、西田哲学は立体的な構造が真相、事実であるというので、説明されても、信じられないひとが多い。西田幾多郎、鈴木大拙、西谷啓治、久松真一、井筒俊彦、竹村牧男氏などが説明しているのに、信じられない。V・E・フランクルも同様の立体的構造をいう。自分に都合のわるいことは否定、無視する抑圧がかかっているようである。 そういう思想や解釈のしかたも、井筒俊彦によれば、言語アラヤ識に保存されて、しつように個人の思考、反応パターンを規制している。新しい見方を聞いても、するりとかわして、保存された反応パターンを使ってしまう。

 いくら説明しても、自分の殻を破るという決意があり、わかろうとしない人には、わからない。マインドフルネスにも、多くの人が参加している、そういう人も、宗教者、その研究者も、一度固定的な見方を決めてしまうと、もう変わらない。言語アラヤ識に保存されて、知らない深層意識で働いている。
 上記の、板橋勇仁氏の西田哲学解明の言葉は、 絶対無に関連するから、仏教、禅、哲学などの専門家でも、わからない人がいる。絶対無を肯定しない人がいる。ある立場にたっているのである。体験できないから、否定するのである。体験できない自分の立場に立つのである。西田哲学は、それぞれの個人の理解、好き嫌い、信じる力などの個人のエゴ的な立場ではなく、それを超えた世界の立場、事実の立場から言語で、概念的に表現しようとする。哲学にも、東洋と西洋では違いがある。
    (注) Pxxは、板橋勇仁「歴史的現実と西田哲学」(法政大学出版局、6480円)のページである。

板橋勇仁氏による西田哲学研究


Posted by MF総研/大田 at 20:15 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL