マインドフルネスには哲学がつきもの(3) [2015年01月31日(Sat)]
マインドフルネスには哲学がつきもの(3)マインドフルネスの哲学は理論、仮説にあたるのに知らずに用いる支援者仏教の歴史と似たことがおきている マインドフルネス心の健康体操昨日は、毎月1回の「心の健康クラブ」の日でした。 意志的自己レベルのマインドフルネスの学習とマインドフルネス呼吸法が中心です。これでも、情報受動局面だけのマインドフルネスではなくて、生きていく人生価値への価値実現、社会創造局面のマインドフルネスを含むものです。 だからこそ、以下におしらせする体験記を書いてくださるような大きな心の変化があります。朝から雪がふりまして、「これでは、参加者が来れないのではないか」 と思いました。しかし、9割の出席があり、驚きました。みなさん。 真剣ですね。 近所の高齢者、主婦などの参加をねらって、金曜日に開催しています。 土曜、日曜は、私も会員も他のことや家族との行事で忙しい だろうからと、土日ではなくて、金曜日にしています。 参加者は、主婦と定年後の人が多いです。高齢になると、失うものが多くて、悩みがちになり、うつ病になり、とじこもり、そして、自殺も起ります。60歳以上の自殺が多いです。 だから、これからの人生をどう生きていくか、自己とは何だったのか、これからも人生に意味があるのか、マインドフルネスで 探求するのは、とてもいいことだと思います。がんになったり、目が見えなくなったり、介護状態になったりします。生きていく上で、マインドフルネスは大切です。形式的な、リラクセーション的なものではなくて、人生、自己の探求が必要になる年齢です。 「心の健康クラブ」は、うつ病などを治すプログラムではありません。予防的、成長的、自己探求的プログラムです。毎月1回ですが、このプログラムも参加者に貢献できているらしく、めざましい心の変化を感じている人がおられることがわかりました。それで、体験談を書いていただくことになりました。 5月に発行予定の「マインドフルネス精神療法」創刊号(発行:日本マインドフルネス精神療法協会)に掲載させていただきます。 心の健康クラブでは、本のセッション1から10までを読み、そして、呼吸法を実習します。「治す」プログラムの場合も、月1回でやっていただくカウンセラーが多いです。月1回の集まりに参加して、あとは、自分でするという方式です。 日本的マインドフルネスは、こうして、心の病気ではない人も実践していただけるものです。本当の自分とは何かを追求するからです。 世阿弥、千利休、良寛などもした実践であり、大変深い自己探求です。 この人たちは、難しい方法でする「襌」の方法 (只管打坐か公案) で行った人々ですが、マインドフルネスでは、ことばで理解できるように説明します。心理学ではない、「哲学」で説明します。意志的自己、叡智的自己までは、「悟り」という宗教体験がない段階であり、真剣になると、充分理解できます。そして実践します。自分の立体的な精神構造を論理的に知った上で、その方向への実践をする。マインドフルネス的自己探求です。 欧米のマインドフルネスは、心理学的エビデンスの操作、技法になりがちです。最初から、「核心」を含めていないといえます。 しかし深い問題は、それでは解決しません。 仏教は、2000年の間に、徐々に核心を失ったようです。 人間というものの核心を考慮した深い 哲学によるマインドフルネスも必要です。「自己評価」「自己の死」の問題は、対象的操作になるエビデンスの問題ではありません。 自己は、対象にならない、奥にあります。 自己についての哲学が東西でおおきくちがいます。 初期仏教も違います。現代でも、僧侶、学者によってちがいます。一元観を知らないひとも多いです。それでは、自己にかかわる問題は援助はできません。自己に一元観(自他不二的)と二元観(自己と他、世界は別)があるのは、哲学界では常識でしょう。自己評価がかかわる問題(虐待、暴力、犯罪、災害などの被害者など)、人生の意味、死を意識するひとなどは、長くマインドフルネスを実践するうちに、この違いが、とても大きい壁になってしまいます。 自己とは、一元観なのか二元観なのか、そのマインドフルネスは、常にどこでも、また一生、死ぬまでやる価値があるのかです。 ジョン・カバット・ジン氏は、襌から学んだというのに、日本では禅僧でさえも、一元観を知らず、禅の探求を一生するひとは少数です。でも、ジョン・カバット・ジン氏が新しい方法を創作しました。全世界の人が、研究するので、深いものがあることがやがて指摘されるでしょう。西田幾多郎、鈴木大拙の本も外国に翻訳されているので、カバット・ジン氏の究極は、自己存在は、彼ら 日本人が紹介したものではないかということに、カバット・ジン氏以外の欧米の人が気づくでしょう。 人格的自己は、V・E・フランクルもいう「超越」の段階です。西田幾多郎は、哲学的に、論理的に説明しています。理解しただけでは 体得ではありませんが、マインドフルネス実践の方向がわかります。 入口から究極まで、すべての行程を知った上で、少しづつ、その方向に昇っていくことができます。フランクルが一人類教といったように、 深い根源の自己は、同じなのです。キリスト教であろうと、仏教、襌であろうと、同じ人間の根底なのです。すべての人の平等にもつ根源、人格的自己の基礎になるものです。 マインドフルネスを使った方法を20年、自分自身の救済の期間を含めると27年、やっていますが、今のマインドフルネスの動向を見ていると、心理学的な方法と、哲学的な方法と2つが必要な気がしています。 深い哲学を必要としない支援者、クライエントと、深い哲学がないと援助できない問題を扱うマインドフルネスです。 後者を扱える支援者は限られます。後者は、西田哲学をもちいるので厳密です。 自分がしっかりしていないと、 若い人でも、働き盛りの人でも、心の病気になったり、家族に暴力を振るったり、犯罪を犯したりするおそれがあります。日本的な哲学のあるマインドフルネスをおすすめしたいです。日本的なマインドフルネスを研究していただきたいです。宗教者でいえば、道元、栄西、白隠、良寛、盤珪などです。西田幾多郎によれば、親鸞もそうだといっています。 芸術家では、上記の古人が探求したものです。松尾芭蕉、高橋新吉、永田耕衣、宮沢賢治、金子みすゞもそうでしょう。東山魁夷、河井寛次郎、高山辰雄などもそうでしょう。一元観ではないかと思われる不思議な作品があります。 マインドフルネスには哲学がつきもの
(2) 哲学が違えば、技法、適応症が違う (3) マインドフルネスの哲学は理論、仮説にあたるのに、知らずに用いる支援者 仏教の歴史と似たことがおきている (4) 難治性のうつ病、不安障害、過食症が治るマインドフルネスが雑誌で紹介 (5)マインドフルネスとは (6) 東洋の深いマインドフルネス ★日本文化には独自の精神があった=マインドフルネス ★日本には深いマインドフルネスがあった =今、世界に通用するすべての人間の絶対平等性を知っていた日本人 ★V・E・フランクルも西田哲学と似た、精神の立体構造をいう ★さまざまな哲学から様々なマインドフルネスが ★マインドフルネスはすべての人がすべきこと ★人は言葉に縛られる =そして、言葉で作った思想、仮説、学説に縛られる =仏教、襌、その他の宗派も、マインドフルネスもその流派の哲学、思想、学説(その流派の研究者の解釈)に縛られる。人の構造の哲学があるか、 認識論的哲学があるか、自己存在論的哲学があるか。(哲学と記したのを「解釈」「理解」としてもよい) ★低い自己評価の実際=20代の自殺 =ほかに、虐待された人、虐待する人、家族に暴力を振るうひと、振るわれる人、パーソナリティ障害、犯罪の被害者、非定型うつ病、不安症/不安障害の人、死を意識するがん患者などにも自己存在の苦悩がみられる。 ★うつ病、不安症/不安障害は生き方の苦悩である =だから、人間哲学のないマインドフルネスでは治せない |
Posted by
MF総研/大田
at 10:36
| さまざまなマインドフルネス
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