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己を尽くす・真の宗教と学問 [2015年01月20日(Tue)]

己を尽くす・真の宗教と学問

 現代日本では、教育の場に、宗教をもちこみにくいが、真の宗教に基礎づけられた ものこそ科学といえる。 真に最も深い宗教は、絶対無であり、エゴイズムがない自己根源を知り、自我を脱落した世界の立場で学問するからである。西田幾多郎はこういう。
    「宗教は科学と相反するかに考えられるが、却って科学的精神は宗教によって基礎づけられるということができる。 真の宗教の立場は、どこまでも独断を捨てて、真に物そのものとなって考え、物そのものとなって行うことでなければならない。そこには己を尽すということが含まれていなければならない。無限の思惟が含まれていなければならない」(西田幾多郎旧全集9,300)。
 これを、哲学者、板橋勇仁氏はこういう。
     「すなわち宗教的な立場とは、我々の自己が先入見を去り、独断を捨てることで実在の真実に即くということ、ただそのことを徹底的に遂行する立場に他ならない。 」
 道元禅師にも同様の言葉がある。すべての人の根底では自我が脱落している。 小坂国継氏はこういう。  全く、エゴイズム、我見、我執のないのが、人格的自己の基礎になるすべての人間の共通の絶対平等性である。これを自覚するのが「真の宗教」と西田哲学はいう。 科学、学問がこの立場にたつべきなのは、当然である。だから、真の宗教と学問は表裏する。 これを守らない科学者は不正を犯す。このことに無知ゆえの浅い解釈を学問に持ち込む。 自分が理解できない言葉は捨てる、自分ができない実践は否定する、自己弁護、自己合理化の解釈が起きる(仏教学者中村元氏がそう批判した)。それを学問だという。 仏教、襌が、いまだに理解されていない、核心が見失われているという(竹村牧男氏)。  仏教、襌でさえも、西田、鈴木、井筒、板橋、竹村などがいうような立場が理解されていない。

 こういうことがすべての科学者に教えられないから、学問、科学に、不正や自己中心的な解釈があとを絶たないのだろう。禅学、仏教学はいうに及ばず、医学、精神医学、心理学もそうであろう。世界の立場でない、自分の学説を絶対視して、クライエント、患者に対応する。 深いところに根ざした苦悩、問題であるのに、合致しない治療法を使うことも起きる。深い人間哲学に基礎を置くマインドフルネスの科学的探求は始まったばかりである。そこにも我執が働く。
 東洋哲学、仏教の学問、襌の学問、西田哲学などの言葉があるが、重要な部分、核心部分の「解釈」が一致しない。自分の言語アラヤ識に刻まれた我見、我執で解釈する。 襌、仏教でさえも、理解されていないと、西田幾多郎が言った。その状況は今も変わっていない(竹村)。
 人は、自分の生まれた国の文化、考え方、その後経験し学習したものなどが、 深い心に刻みこまれる。解釈パターン、思考パターン、行動パターンが形成されている。そこには、個人の我見、我執、偏見、エゴイズムが働いている。井筒俊彦は、そこを「言語アラヤ識」と言った(『意識と本質』岩波書店)
 そこを突破して、根底のすべての人の根源を自覚せよと、大乗仏教、襌(道元、白隠など)、西田哲学、鈴木禅学、井筒俊彦などが教えてくれている。しかし、こういうことが、個人個人が持つエゴイズム、我見、我執によって形成された解釈を用いるので、理解されない。 いったん自分の思想、解釈が言語アラヤ識に刻まれると、容易なことでは変えられない。個人間、集団間の対立、葛藤、あらそいが絶えない。科学者でさえもそうなのである。大乗仏教、襌、上記の科学者が指摘しているとおりである。


★(目次)人格的自己のマインドフルネスへ

★(目次)日本のマインドフルネスの再興を
<目次>セラピスト・カウンセラーを育成する人には哲学が必要になる

★種々のマインドフルネス流派の哲学の違い
★宗教者だけが偉いのではない。社会を創造するすべての人が尊い
★宗教と科学
 =最も深い宗教(西田哲学が指摘)は科学の根拠となる

Posted by MF総研/大田 at 22:24 | 新しい心理療法 | この記事のURL