心底、苦悩する人は哲学者になる [2015年01月16日(Fri)]
心底、苦悩する人は哲学者になる
西田幾多郎は、こういう。
「哲学は我々の自己が真に生きんとするより始まる。我々の自己の自覚の仕方であり、生き方である。」(10,472)
人生の悲哀を意識しないものは、哲学に向かわない。この苦悩はどこからくるのか、この自己とは何であるのか、自己はどこへ行くのか。哲学は「生き方」である。
意志的自己に生きる、叡智的自己に生きる、人格的自己に生きる。人格的自己は、自我のエゴイズムのないところから考え、生きようとする「生き方」である。「無評価」というマインドフルネスのもっとも深い立場である。
「哲学は我々の自己の自己矛盾の事実より始まるのである。哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない。」(『場所の自己限定としての意識作用』6、116)
世界には無数の人間がいる。独断と我執を持つ。自分は夢を持つが、偏見、エゴイズムによって思いどおりにならない。苦悩する者は、こういう悲哀を実感する。
「否定すべきは、我々の自己の独断と我執でなければならない。無論、矛 盾的自己同一的な世界は夢と偏見とに充満することが、それに本質的でなければな らない。・・・各人の独断、各人の我執というものが、この世界に本質的でなけれ ばならない」(『経験科学』9,301)
無数の人の夢とエゴイズムの結果が、自分に与えられる。
専門家もエゴイストである。自分の立場から考え、発言し、行動する。無数の人間のエゴイズムによって行動した結果が、瞬間瞬間、必然のものとして自分に迫る。だが、自分には、自由がある。与えられた現実が過酷であろうとも、自分には自由がある。自分は創造的世界の一角である。自己は創造的世界の創造的要素として、世界を作る、己を尽くして行動するのである。己を尽くせば、それは自分のものではない、絶対的一者のものである。
「かかる立場に於てこそ、我々の自己は創造的世界の創造的要素として、個物的であればある程、絶対的一者の絶対命令に接して居るのである。絶対現在の瞬間として、歴史的必然の傍には、いつも自由があるのである。唯一なる時、唯一なる場所い於て、我々の自己は唯一なる責務を負って居るのである。」(10,378)
苦悩する人は、哲学者になる。自分のかたわらに死の世界がある。いつ死ぬかわからない。自分はこんなに弱いものか。なぜ、自分にこんな苦があるのか、かくまでして生きる自分とは何か、いかに生きたらいいのか。哲学の問題を考えるのである。幸福に酔う人は、真剣にならない。マインドフルネスを実践しない。
絶対者の絶対命令として迫る現実をマインドフルネスして、そして自由意志により価値のためにマインドフルネスの行動をしていく。
★人格的自己のマインドフルネス
★日本のマインドフルネスの再興を
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Posted by
MF総研/大田
at 19:00
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新しい心理療法
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