CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
«第3回 マインドフルネスと前頭前野/神経生理学的フュージョン | Main | マインドフルネスとは»
日本のマインドフルネスは技法ではなく生き様 [2014年12月23日(Tue)]

日本のマインドフルネスは技法ではなく生き様

 マインドフルネスにはさまざまな流派があります。 しかし、日本のマインドフルネスは、襌が基本ですから、単なる技法ではありません。 東南アジアの仏教もそうでしょう。その仏教の理論があります。 仏教は多数にわかれて、それぞれの理論があります。
 日本の襌は、真の自己とは何かを探求するものでした。 特に、自分の職務(芸能、芸術、スポーツ、医学など)に限界を感じた人や、死を意識した人たちが真剣に行じたでしょう。

 真の自己の構造は、その根底は、絶対無分節、善悪なし、生死なし、、、。すでに、述べました。 ここから、すべてのものが生まれてくる。自己も世界も。生も死も。

 技法だけいうと、脳科学の研究でずいぶんわかってきました。 普通の健康な人は、背外側前頭前野が活性化しています。現在、すべき仕事をワーキングメモリ(作業記憶)が処理します。自分のこの瞬間に機能的な行動をする司令部が背外側前頭前野です。
 瞑想をする人は、ワーキングメモリや瞑想などの研究によれば、背外側前頭前野と背内側前頭前野が活性化するようです。 たくさんするほど背内側前頭前野が厚みを増して、楽々に瞑想できるし、感情などを抑制したりします。意図的にすることを繰り返し行うほど習慣化すると、ほとんど無意識に近い軽い指令でも意図していた場合に近い程度に背内側前頭前野が活動するのでしょう。ですから、日常生活時の生き方も違ってくるようです。思考、行動、職務の取り組みなどに影響するでしょう。

 襌の場合、感覚的情報を受ける局面よりむしろ、限界をおぼえた職務の克服や人生をいかに生きるかということを問題にした人たちが深く探求しました。鈴木大拙、西田幾多郎は勿論ですが、夏目漱石もあこがれました。

 だから、日本的マインドフルネスは、つらい感覚、症状などに、気づき、無評価で、観察するなどにはとどまりません。そういう局面は、初歩段階です。世界から他者から自分が否定される局面です。しかし、積極的に行動しなければなりません。職場では、常に自分の評価による決断を迫られます。受身局面の工夫だけでいきるわけにはいきません。積極的に自分が評価することに向けて、行動していかねばなりません。この局面は、起きている現実に気づき、観察することではありません。まだ世界にないものを創造していくのです。まだないので、気づき、無評価観察ではありません。社会にないものを制作、創造していく行動です。行為して、結果を見て(この瞬間は瞬時に観察)、即座に価値ある行為を選択(ここは評価)していく。その連続です。静かに座している場所だけでの瞑想だけでは役にたちません。

 しかし、旧来の襌の方法は、最終段階の指導法であり、一般の人には難しすぎます。現代の一般の人ができる方法を開発しなければなりません。それをマインドフルネスとよびましょう。

 初期仏教の目標は、苦の解決でした、苦の認識論的探求だけであり、自己存在の哲学探求はあまりありませんでした。はるか後の日本の襌はそれを超えて、生きるとはどういうことか、自己とは何か(生きている自己、死に行く自分とは何か)自己存在が問題でした。どこをめざすかという哲学から、マインドフルネスの手法が当然違ってきます。電車に乗れない苦、仕事や対人関係の苦と、自己存在が死ぬという問題とは雲泥の違いがあるでしょう。まず、日常的な割合浅い問題を解決するマインドフルネスからトレーニングを始めて、深い問題のマインドフルネスにとりくむことになるでしょう。

人格的自己のマインドフルネスへ
Posted by MF総研/大田 at 22:14 | 深いマインドフルネス | この記事のURL