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道元禅師=すべての人の根源は迷惑せず、妄想 せず、顛倒せず、増減なく、誤謬なし [2014年12月12日(Fri)]

マインドフルネスの段階
 = 襌の深まり(9)

 

道元禅師=すべての人の根源は迷惑せず、妄想 せず、顛倒せず、増減なく、誤謬なし

 以上のように、言葉で構築された社会の中で葛藤を起こして、苦悩するが、 マインドフルネスの実践を深めていくと、言葉の起きる以前、自分他者、世界の区別が起きる以前、善悪、だめ・よいなどの評価、過去未来の時間が起きる以前、神仏が意識される以前に遭遇する「体験」が起きる。 大乗仏教の経典では、しばしば出てくる無生法忍である。唯識では「真見道」である。 これが、井筒俊彦氏がいう、絶対無分節である。「分節(T)」しか見えなかった、普通の人間の見方から「絶対無分節」へである。この体験から、ジョン・カバット・ジン氏のマインドフルネスの7つの心得も出てきている。自己の根源をまねているのである。この哲学を理解して、信じて、 実践するのがMBSRである。カバット・ジン氏は、道元の哲学を基礎にしている。つまり、MBSRの理論の根拠である。

 次の記事で紹介したように、道元禅師は、自己の根源を「信じよ」といっている。 これをMBSRはとりいれているのである。なぜ、マインドフルネスか、どうするのか、というのは、それぞれの流派によって違うが、MBSRは襌である。  この記事の中に、すべての人の自己の根源についてのさまざまな特徴を襌の達人や哲学者の言葉から紹介したが、道元禅師の言葉をとりあげてみよう。道元禅師のこういう言葉がある。

  「仏道を信ずる者は、須らく自己本道中に在って、迷惑せず、妄想 せず、顛倒せず、増減なく、誤謬なきことを信ずべし。」

 これは、井筒氏がいう、すべての人の自己の根源の「絶対無分節」である。 (これがあるから、全てのひとの人格が絶対平等であるという哲学が出てくるのだろう。また、 親から否定されて育った人、虐待されたり犯罪の被害者で自己評価が低い人、自己嫌悪の人、死の不安におびえる人が救済される可能性がある。)
 道元襌は、これを指針として行うだろう。現実に迷い、困惑し、つらい思考を妄想する、間違いだらけのだめな自分、欠陥だらけと親からも言われ自分もそう思いこんで自己嫌悪してきた、犯罪の被害にあった結果自己嫌悪自己否定で苦しむ、罪を犯しただめな自分と苦しむ人、・・・ それが違うというのだ。
 自分は、これと正反対で、人格性を持つのだという自己存在の哲学を理解して<信じて>、自分を観察していくのが、道元襌だということになる。MBSRは、これをとりいれているのだろう。7つの心得がよく似ている。もちろん、上記の道元禅師の言葉は、絶対無分節のただ中であり、MBSRの心得は、相対的で分節(T)の中である。しかし、分節(T)のなかで、絶対無分節の哲学を帯びて、そちらの方向に近づくマインドフルネスの実践をするのである。「専門僧侶でない人はこの人生ではこの程度しかいけない」というような、不全観の哲学ではなく、すべての人の絶対無差別をいう。

 他の流派(ヴィパッサナー瞑想やACTなど)は、哲学が違うので、目標の深さも、マインドフルネスの心得も、適用される問題苦悩も違ってくるだろう。ヴィパッサナー瞑想は、初期仏教であり、その哲学を大乗仏教から批判された、道元禅師のような人間哲学はない。4種の解脱の差別がありこの人生できわめる人はほとんどいないという思想になった。
 長期間マインドフルネスを実践するつもりであれば、そのマインドフルネスは、どこへ向かうのか、どこまで行けるのか、究極の向かうところを知るのがとても大切である。

 反社会的集団のカルトも、マインドフルネスの看板をかけるかもしれないことを警戒する必要がある。従来、カルトは、セミナー、ヨーガなどで誘った。カルトがマインドフルネスのセミナー、マインドフルネスのヨーガという看板で誘うかもしれない。 カルトにもマインドフルネスに似た瞑想があるが、反社会的な哲学を持つものがある。隠している場合があり、充分に瞑想で洗脳していき気づいた時にはもう善悪がわからない。枠にとじこめられる。マインドフルネスには実践について質疑応答があり、それを通じて哲学思想が徐々に 植え込まれていく。霧の中にいるとすぐには濡れないが長くいると、すっかり濡れてしまう。 瞑想の指導の合間の質疑応答、その実践トレーニングの場、合宿生活のはしばしに現れる人間哲学、思想が非常に大きな意味を持つのである。無意識のうちに、深層の無意識の場所、言語アラヤ識に保存される。 こうなると、もう容易に変われない。何か他の思想、宗教、説得の言葉を聞いても、受け入れない。宗教の信者が他の宗派に宗旨替えすることはほとんどない。言語アラヤ識にすりこまれるからである。
 誠実な「マインドフルネスの専門家」ということがわかるような制度を作っていくことも大切になる。日本マインドフルライフ協会がその役割をはたすかもしれない。 この協会は、幅広く、マインドフルネスの流派を学ぶし、瞑想の専門でない現実の実践者に話を聴く機会を持つ。日本マインドフルネス精神療法協会は、日本的なマインドフルネスであり、「マインドフルネス心理相談員」の資格認定、さらに熟練度を示す資格認定を行っていく。

 仏教や襌の学問、心理療法のような学問にも、自分の学説の執着傾向がある。仮説とか、ある立場のものであるが、その師の学説を学習をすればするほど、その説を信じこみ、他の学説への乗り換えはできない。みな、言語アラヤ識に形成された思想、学説によって解釈する。このような学問とか、心理療療法の大家になると、もう他の学説とか心理療法を受け入れることは難しい。
 仏教や襌の学問においても、空、無、無生法忍、見性というような「体験」はないと思いこむ学者もいてそう思いこむと、もう絶対というほどその説を変えることはできない。その固定した目がねをかけて経典、語録の文字を読む。仏教や襌の研究者にも、柔軟な説を持つ人もいれば、かたくなに無、空の体験を否定する人もいる。そうなると、哲学者永井均氏が、「人格」の成立を説明できたという哲学を肯定できないで、人格の問題で苦悩するひとの救済をせばめるかもしれない。

 ある流派の心理療法などの専門家になると、もう他の心理療法を受け入れることはないが、板橋勇仁氏のいうベテランになった専門家のエゴイズムがこれである。 道元禅師の深い哲学、西田哲学は、そういうある立場のすべてに執着するなということを方針としている。道元禅師がいうように、人間が決めた説のまったくない根源を自覚しようという方針である。 西田幾多郎が「自己なくして見、自己なくして働く」とは、そういうある自分の見方、自分の立場を絶対視しないことだ。こういう開かれた襌の実践と哲学が、日本にあったのだが、よく理解されてこなかった。竹村牧男氏が、仏教の核心が失われたというのもそこであろう。  だから、これこそ最上のマインドフルネスだと思いこまないほうがいい。それが執着であって、マインドフルネスではなくなる。幅広くすべての流派をみたほうがいい。そういうことを自覚せずに、カバット・ジン氏がブームをもたらした「マインドフルネス」はどれも同じだろうと、「マインドフルネス」の看板があれば接近していく。いったん、一つの流派にそまると、もう進路変更が難しい。執着せずに、幅広くみたほうがいい。

 「私らはここまで行ける」「この人生ではここまでしかいけない」「お前はそのその程度の人間だ」と 言われると、その程度の人間にしかならない。その親の人間観、その宗教者の哲学思想の枠内にとじこめられる。

 MBSRも、ジョン・カバット・ジンの哲学を理解しないと、一々、マインドフルネスの方法を質問しなければならない。しかし、自分で体験すると、他者にたずねる必要がない。だから、 欧米のマインドフルネス心理療法者が、マインドフルネスの支援者になろうとする人は、マインドフルネスを体験しなければならないというのだろう。マインドフルネスは実践であり、きちんと習得するにはそれなりに難しい出来事が起きる。トラウマのよみがえりや魔境とよばれるかわった現象が起きる。体験のない研究者は仏教実践、襌の指導はできない。1年も続く現実の社会苦の解決のための実践指導はできない。その場かぎりの形式的な方法しか指導できない。 言葉だけが氾濫して実践と他者支援がなくなった仏教や襌(念仏もか)とマインドフルネスが同じになってはいけないだろう。そうなっては、仏教、襌と同じく、マインドフルネスも、長期間かかる一般の問題をかかえた人から、またそむかれるだろう。

 日本の襌、日本の哲学は、初期仏教(方法は八正道やヴィパッサナー瞑想)、インド大乗仏教(方法は六波羅蜜や唯識観)、中国襌(方法は公案や只管打坐)や中国浄土教を乗り越えて、親鸞上人、道元禅師によって日本人に向いたものに作りかえられた。心理的問題や苦悩の解決のためには、徹底的に工夫された深いマインドフルネスがある。能、茶道、松尾芭蕉の俳諧、芸術、文学などの日本文化の根底にもこれがある。

 マインドフルネスはさまざまなものがあるのはいいが、日本のマインドフルネスも大切にしていきたいものです。マインドフルネスとして日本の社会問題の解決支援のために活用するには、研究しなければならないことが多くあるのです。世界的に通用する可能性のあるはずのすぐれた日本のマインドフルネスがまだ全く掘りおこされていません。マインドフルネスは、未知の創造的な事業になりそうです。10年、30年と相当長期間かかる研究課題であるため、研究生命の長くある、意欲ある若い人材も必要です。また、 私のように老い先が短いように、 老熟の専門家は、まもなく迎える自分や配偶者の「死」との直面があるはずで、道元禅師のいう、人間の根源は、「生死もない」ということを探求なさってもいいはずでしょう。哲学のない形式的なマインドフルネスでは、一時的まぎらしにしかならず、実践の隙間から死の影がはいりこんでくるでしょう。

<全体目次>人格的自己のマインドフルネスへ
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Posted by MF総研/大田 at 20:51 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL