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襌の深まり(5) [2014年12月06日(Sat)]

マインドフルネスの段階
 = 襌の深まり(5)

 

第4 「空」「無」の体験のあと
 「無」から「有」へ

 さて、遠回りしましたが、  この次の段階です。これは、いわゆる、悟り、無生法忍、見性の体験です。これが究極ではあ りません。これを体験して終わりならば、言語が通用する社会への貢献がないのですから、自己 満足に過ぎません。社会貢献の段階に入りますが、その前に、自己や世界の新しい見方の確認 があります。

 「しかしながら、この「無名」の境地が襌の究極するところではないことにもまた注意する必要が あります。もし、これが究極の境地であるなら、一度言語分節の存在的次元を超え出てしまったら 、もう言語など、なんの用もない、無用の長物ということになりましょう。」 」(井筒俊彦『意識と本質』岩波書店、398頁)

 現実は、ここにはとどまってはいません。

 「「無」といい「空」という絶対無分節の形而上的状態としての「現実」はそれ自身のうちに自己 分節への存在的傾向を内包しているという事実――これもまた襌においては理屈ではなくて体験 的事実なのですが――であります。」 (同上、398頁)

 無から有が生じるところの現場も体験します。ここが、天地創造ともいわれるし、常に新しいと。絶対無を体験した人は、次の瞬間に、無から有が生じる瞬間も体験するのです。自分(ただし無我の)が現れ、世界が現れ、言葉が現れ、苦悩が現れるのです。

 「絶対無分節者は」いわばどうしても自己自身を分節せずにはおられない。「無名」は「有名」に転じていかずにおられないのです。そして襌の観想的意識は、本源的形而上的「一者」が次第に自己分節を重ねつつ、ついに具体的事物事象の世界として完全に現象化された形で現れるところまで、「一者」の自己分節の全行程をくまなく辿るべく定められているのであります。」 (同上、399頁)

 ジョン・カバット・ジンが「初心」というのもここからきているのでしょう。  「初めて見たときと同じように」とは謎めいた心得ではありませんか。絶対無の時に、時間が消 えます。自己も世界も消えます。そして、次の瞬間に自己、世界が現れます。新しいのです。
 ただし、「新しい」というのも、マインドフルネスの初心者のトレーニングでみる「新しい」「初心」というのと、 絶対無を通りこしてからの「新しい」「初心」とは全く違うのですが。

人格的自己のマインドフルネスへ
Posted by MF総研/大田 at 19:38 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL