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襌の深まり(3) [2014年12月01日(Mon)]

マインドフルネスの段階
 = 襌の深まり(3)

 仏教は、八正道の修行に、「襌定」があったように、瞑想が必須です。その方法が「マインドフ ルネス」でした。大乗仏教になって、瞑想によって自己の見方が深まりました。襌定、瞑想を するうちに、無生法忍という大きな節目があります。道元の十二巻本『正法眼藏』に、同様の階 位が見られるが、ここでは省略します。

 井筒俊彦の襌の深まりをみておきます。前に、分節(T)⇒無分節⇒分節(U)という階位をみました(こちら) が、もう少し詳しく階位を説明したところがあります。そこをみます。「マインドフルネス」とは、気づ き、無評価で観察し、重要なものに意識を向けるという要素があります (そのような今この瞬間の自己の統合的意識を私は「意志」とよびます) が、 それらのマインドフルネスが向かうものが、感覚、身体の動き(SIMT以外のマインドフルネス心はこれが多いが、SIMTは他の重要な深い心理現象も観察します)のほかにあるわけです。日本の襌がとても深いのです。 井筒は襌の段階をいくつかわけて説明しています。マインドフルネスは、ジョン・カバット・ジンが襌を応用 したものですから、形式的にはとても坐禅に似ています。マインドフルネスは初期仏教(今東南アジアに伝わっている)にもあった手法です。 形式的に似ているのは当然です。しかし、 哲学やどこまで深くみていくかがちがっています。そうなると、深いところからおきている問題や苦悩について援助できるかどうか、違ってきます。前にたとえた(メタファー)のですが、 「肺炎には風邪薬は効かない」です。「自己嫌悪」「死」の苦悩は、感覚、身体の動きのマインドフルネスでは効かないでしょう。何度もいいますように、日本人は深い問題で苦悩し、社会問題も深いところからきているものが多いと思います。

第2 事物の輪郭はぼやけて一つに帰す

 マインドフルネスの仕方は、観想といわれます。井筒はこういいます。

 「坐禅の経験のおありの方はどなたのも御存知でしょうが、坐禅で観想状態が深まって参ります と、意識の深層が次第に活発に働き出します。そしてそれと同時に凝結していた世界がだんだ ん溶けていきます。いわば流動的になっていきます。・・・・
ついにはいまにも消滅せんばかりのかそけさとなります。いわゆる「本質」なるものによって造り出されていた事物相互の境界線は取り除かれ、いろいろな事物の輪郭はぼやけてきます。そし て、今ではほとんど区別し難くなったものたちが相互に浸透し合い、とうとう最後には全く一つに 帰してしまいます。それが「一者」の次元です。」 井筒俊彦『意識と本質』岩波書店、p396

 この段階でも、まだまだです。現在、ブームになっているのは、せいぜい、毎日1時間くらい、3 カ月から1年程度の心理療法的に行われるマインドフルネスですが、上記の井筒のいうような心 境になるには、相当な時間、瞑想を毎日やって、3年、5年やってやっと得られる心境です。 心の病気でない人が、マインドフルネスの瞑想を真剣にすると、半年-1年くらいで、この境地になるかもしれません。 そして、良 き師に導かれないと、これを究極だと勘違いするのです。これは、まだ、絶対無の体験、無生法 忍ではないのです。
 MBSRやSIMTの瞑想のマインドフルネスで、当面の痛みやうつ病などが解決してさらに、瞑想を続けていくと、何年か後に、このような境地になるかもしれません。 健康な人が坐禅や他の瞑想を数年実践しても、同じような境地を得られるかもしれません。 それでもまだ無生法忍、絶対無の体験ではありません。
(続く)

人格的自己のマインドフルネスへ
Posted by MF総研/大田 at 21:46 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL